「
白昼夢にも近い印象で私の前に現れた元カレが、まるで現実を知らしめるように、アスファルトを踏みしめる音をさせながら、一歩、こちらへと近づいてきた。 「話がしたいんだ、 彼がそう言った事がまるで呪文だったかのように、セキュリティの時間が切れたドアが、再びガチャリとロックされる。 それに飛び跳ねるように反応した私を構いもせず、 「話をする時間を…」 二歩、 「いや…俺の話を聞いて欲しいんだ、 そして、身を固めたまま視界の隅にぼんやりと見ていた彼のじりじりとした三歩目が、マンションの敷地内への境界線を越えた時、 嫌だ。 まるで電流が走ったかのように、反射的に拒否の感情に全身が染まった。 けれど、喉が張り付いてしまって、その心からの叫びを声にする事すら出来ず、 「俺…、昨日、言い合いになったあいつから、お前のところに行ったって聞いて、それで…どうしても話がしたくて…」 「本当に…本当にごめん、 「…ッ」 私の眉間が嫌悪を示さんと狭まった事に気づいた彼は、自分の言葉が届いていると確信したのか、更に早口でまくし立てた。 「でも聞いて欲しいんだ、 「…」 この人は、誰――――――? 空気銃を打ち込まれたかのような思考の穴に、ぽかりと浮かんできたその疑問。 見かけは、私が知っている人。 でも、中身は私が知らない人。 私が知っている彼は、控えめだけど、意思表示はちゃんと出来る人だった。 押しは強くなかったけれど、我は通せる人だった。 「今日分かった。 もしかしたら私よりも平穏を望んで居た彼が、 「父さん達も こんな真昼間に、 「お前なら 誰に見られる事をも憚らず、感情が赴くままにしゃべっている。 「酷い…」 涙が一気に溢れてきて、膨らんで歪んだ視界の中で、元カレの姿が大きく上下に分断された。 「酷いよ…」 もう一度呟いて、綺麗に洗われた世界の真ん中に、情けなく佇むその人を見る。 「 好きだった。 私を肯定して、真綿で包むように目を塞いでくれた優しい束縛が。 「…ぅ…」 立ち止まる事を認めて、進んだ道を私の為に引き返してきてくれる許容が。 「 でも、 「――――――私と並行して付き合っていた時間を、全部彼女のせいにするの?」 拳を握り締めて私が吐き出した言葉に、さすがにハッとした反応を見せた彼に、示されるだろう誠意があると、僅かな期待をかけて続きを紡ぐ。 「彼女と始まったのは、私はインフルで会いに行けなかった夜なんでしょう? 朝、部屋の写真付きでメッセージを送る時、どんな気持ちでそれが出来たの?」 その中の一枚には、シーツの乱れたベッドだってあった。 何気ないショットが、癒え始めていた心の傷痕を擦るような 「あれは…、 苦虫を噛み潰したような顔をするけれど、これは知っている。 大学の時、ある事無い事をネットに晒して私を中傷した人達が、それを責められた席において、自分は悪くないと言い訳を並べていた時の顔。 私を傷つけ、悪い事をしたなんて、今の彼の中にはそんな想いはきっと無い。 少なくとも私には、欠片だって見つけられなかった。 「夏から、大阪では彼女と暮らして過ごしていたんでしょう? でも出張で出てきた時は、この家で、ホテルで、私を抱いた」 「それは…」 二人の関係性がある限り、それは愛の営みだ。 恋人同士だから許される、密接な時間の共有方法。 「彼女を抱く時、私に悪いと思わなかった?」 彼が、気が付いたように目を開く。 「お、思ってた! 「それってつまり――――――」 "しゃぶって" 「…」 私は、自分を支えようと、両腕をギュッと抱きしめる。 「私を抱きながら、彼女の事も考えてたって事だよね?」 「え、あ、ぃや…」 こんな人――――――だったんだ。 でも、こういう人だった気もすると、理解している私もいる。 生活の平穏を、自分の心の安定を優先して、確かに、過去の私は何かに目を閉じて生きてきた。 この状況は、きっと私の罪でもあるし、そして、現実から目を逸らし続けた私への罰でもある。 私自身で、きちんと前を向いて歩き出す為の、 「私、彼女とは違う…」 自分の中に散らばった何かを必死で集めて、漸く一つの言葉にすれば、それはストンと私の中に落ち着いた。 そう。 彼女と私は、根本的に違う。 「あ…当たり前だよ、 「彼女と私では、あなたに対する気持ち――――――その本気度や、量が、全然違うの」 それがきっと答え。 「…え?」 困惑した様子の彼に、私は告げる。 「あなたの事、穏やかに生きて行くためのパートナーとして、何もなければ、きっとずっと一緒にいられたと思う」 だって、プロポーズされるかもと期待した時、私は確かに幸せを感じていた。 二人でゆったりと過ごしていく事を、ずっと先まで想像出来た。 「細く、長く…そんな風に過ごして来たあなたにとって、きっと彼女は、爆風のような激しさで近づいてきたんでしょう?」 私にとって、 それは、今までの自分にとって未知のもの。 信じていいのか、全く確信が持てないもの。 ずっと先まで、これが保てるのかと疑いたくなるもの。 でも、 「あなたはそれを、責任を持って受けとるべきだわ。その愛され方を、一度は男として選んだんだもの」 「 「そして、その同じ岐路で、私があなたという存在を諦めた事実を、あなたは理解するべきだと思う」 「…それは、俺がお前を傷つけたからで…」 「違うよ」 否定しようとした彼に、私は首を振った。 「彼女から話をされた時、私は間違いなく、あなたを捨てた」 「違う、 「電話をくれないあなたに、でもテキストなら出せば返事をするあなたに、きっとどこかで愛想が尽きたの。だから縋らずに、全てを終えた」 「 「あなたを好きだったことは否定しない。大切に思っていた事も否定しない。でも、なりふり構わず求める愛し方は私には出来なかったから、私はやめた。それを続けていく事を――――――」 「 「未来を思うのやめて、諦めた自分を責めて、そして、空っぽになってしまった自分の為に……泣いて…泣いて、泣いてッ」 あの頃に背負っていた悲しみを思い出し、俯いた私の足元に、幾つもの水滴がぶつかっては散っていく。 ずっとずっと、ぶつけたかった感情が、脈動して涙になり、気が付けば言葉へと結晶化して溢れてくる。 「酷い…酷いよ…、酷いッ!」 渾身で、思いのままに心を叫ぶ。 「まるで! 全部無かった事みたいに、私を無視して過ぎ去ろうとしたクセに、やっと乗り越えた矢先にこんなの酷い! 酷すぎるか、…ぁ…」 慣れない事をして、体中の酸素が消えたような錯覚の後、クアリと眩暈を覚えた私へと、 「ごめ、… そう繰り返し呟く彼が、一年近くも私を裏切っていた手を伸ばして近づいて来るのが涙の視界に入って来て、 「ぃや…」 私は、意識の舵を取り戻して、一歩後退を選択する。 それなのに、そのたった一歩で、セキュリティドアが退路を断って背中に当たり、 「 「やだ、来ないで…」 近くに寄ってきて欲しくない。 もう二度と、この人に触られたくない。 「 「来ないで…」 助けて、 「 助けて…、 「 助けて、――――――… 「―――――― 「ぁ…」 顔を上げて、その声の主を確かめる前に、答えはまず鼻孔を通して齎された。 足が嵌まりそうな程に不安定なこの世界の全てを一瞬で覆したのは、私と元カレとの間に入ってきた背中からふわりと漂って来る、瑞々しい甘さを含む限りなく優しいイランイランの香り。 同時に、私の中で枯渇していた何かが満たされて、容易く呼吸が出来るようになる。 護るように視界を塞いでくれたイタリアブランドの青のシャツを思わず掴み引けば、肩越しに 「 「 私の情けない顔を見止めた 腰に絡ませてきた左腕でしっかりと私を抱き寄せ、 「遅くなった」 耳にかかる吐息と共にそんな言葉が齎されれば、自分の体温が戻ってきた事が感じられた。 「そんな事、無い…あり、がと…」 近くなった胸板に自然と頬を埋めて、私は漸くホッと息を吐く。 そんな私の頭を、大きな掌でゆっくりと一撫でした 「ああ、間に合ってよかった」 また細く囁きながら、全身で私を包むようにして抱き締めてくれた。 「…でも、 「ケイが連絡くれた」 「ケイさんが?」 「ああ。ちょうど帰宅途中だった」 「そう…なんだ」 「それから、ジュリが言った事は気にするな」 「…え?」 唐突にそう言われて、 「これはケイからの伝言だが、――――――ジュリに何か言われたのか?」 「あ、…えっと…」 どう説明すればいいのか、 「ジュリさんって、 「ん? ――――――ああ、あいつはオレの従妹で、一年くらい前からケイのストーカー」 「え?」 ケイさんのストーカー? 「…ケイさんの?」 あ、あれ? 私が思い描いていた相関図が、音を立てて崩れていく。 「 「 入り込んできたのは、震えるような元カレの声。 「 え? 思いがけない切り返しに困惑しか無かった私の心中の呟きと重なって、 「ああ…そっか。でもほら、それなら、両成敗って事でやり直せるよね? そうだよね、 これは…、その五年で私と培った思考のなのかも知れない。 波が立つ事を望まなかった私は、大抵彼の言う事を肯定して従ってきたから。 でも、 「おい、いい加減にしろよ」 彼に向き合ったのは、私ではなく 「 けれど、元カレの視線はずっと私に固定されたままで、 「聞いてるのか?」 反応を確かめようと再度呼びかけた 「 得体の知れない気味悪さが、私の背筋の奥を震わせた。 「…お前、来月に別の女と結婚する予定だろ?」 「関係ない」 「大アリだよ。事実はどうであれ、お前が 「これは 長い会話の間も、そして、今しがた訪れた無言の時間にも、突き刺すような視線が私だけに向けられていた。 「――――――あいにく、オレは部外者じゃない。列記とした ――――――え? 私の内側の驚きと共に、元カレの眉もピクリと反応する。 「こっちを見ろよ。――――――オレが誰か、お前になら判るだろう? それはイコール、オレと ここにきて、また私の知らない何かが始まろうとしている、それだけが今の私に分かる事。 でも、彼になら判るって、どういう意味…? 彼も、 「 不安になって揺らめきかけた私の肩を、 体温が、伝わって来る。 それを感じた瞬間、私をしっかりと支えてくれるこの腕を、信じようと心を決めた。 脅されて、意地悪もされて、腹が立つ事もあったけれど、 前を見るように導き、私が知らなかった幸せな時間を与えてくれた人だ。 もし、私に近づいた事に何か理由があるのだとしても、受け止められるように努力してみよう。 それで離れる結果になったとしても、 強い思いで、正面からその異質な視線に相対すれば、何故か逃げるように目を逸らされ、次にその目線が行き着いた先は そして、 「そ……そんな…ッ」 虚ろのように見えていた彼の眼差しが、見る見るうちにはっきりと見開かれ、強い光を宿し始めた。 「――――――その顔…、まさか、――――――サクヤ・ロランディ…?」 何かを確かめるように私へと戻ってきた元カレの視線は、けれど即座に、 そして、執拗に 「馬鹿な…」 え…? ――――――何…? 一体どうしたの? 顔色を蒼白へと変えていく元カレの態度に、私の不安も果てしないところまで駆け上がる。 「その え、…髪…? 元カレの言葉に釣られて、 自分でこだわっているのかプロの手が入っているのか、明らかに良質の光沢を持つその髪は、濡羽色とも呼べるほどに見た目からしっとりとしていて、片側の短さも、残された側の絶妙な長さの一房も、これまでと特に変わらず乱れた様子も無かった。 元カレへの疑問が膨らんで、思わず目を戻してしまう。 すると、並んだ私達の顔を交互に見つめながら、息を噴き出すように短い笑いを何度か吐いた彼は、 「…ふ、くく、…はは、あははは、あはははは、ははははッ…は…」 唐突に、体を折るほどの勢いでお腹を抱えて笑い出した。 「…え」 虚を突かれて、それ以上は何も口に出来なかった私の内心を顕わすように、この痴話げんかの成り行きを遠目にニヤニヤと眺めていた通行人達が、ギョッとした顔で足早にその場から散り始めたのが視界の端に見える。 他人の修羅場を傍目に見るのはいいが、事件に巻き込まれるのはご免という事だろう。 けれど、元カレの挙動はそれが否定できない程に異様だった。 ほんの数十秒。 でも、それよりもずっと長く感じられた時間を経て、 「ねぇ、二人はいつから…?」 まるで息を吹き返すように、大きな深呼吸を一つ行った後、彼はそう切り出した。 「俺が知らないところで会ってたんでしょ? そうだよね?」 え…? 「おかしいと思ってたんだ。あんなに 一瞬、思考が停止する。 「な…に?」 「どういう、事…?」 彼が何を言っているのか、私にはさっぱりわからない。 「…ね、 何かしらの糸口が欲しくて、再び 「俺達が四年の時はもう隠れて付き合ってたの?」 「いや」 「それじゃあ、 「いや」 「なら、――――――俺が、大阪に行ってから…?」 「…」 えっと…、でも、ちょっと待って…。 肩を掴まれていなければ、私は頭を抱えて蹲っていたと思う。 彼が大阪に行ったのって…それって三年も前の事で――――――私はもちろん、 それに、 『室瀬さんってぇ、三年前まではシスサポにいなかったらしいんですよぉ? 見るようになったのはここ三年くらいって聞いてますぅ。もしかしたら海外の開発部から来たんじゃないかって――――――』 藤代さんの言葉を思い出して、心の中で自分の意見を大きく肯定した。 そうだよ。 あの時はまだ一般オペレーターだったから、技術部の人と接触があれば、絶対に記憶に残っている筈だ。 幾ら他人と距離をとって生きてきた私でも、仕事上の付き合いなら、関わった人を綺麗さっぱり忘れるなんて有り得ない。 「… 「サクヤ・ロランディ、 「ああ、家訓でもあるからな。 「ふざけるな、 「他の女と結婚するのにか?」 「…ッ」 展開の源は全く理解出来ないけれど、二人の交わす会話から、少しずつ明かされてくる事もある。 今確かなのは、 そしてその事を、元カレは把握していたという事実。 「お前の結婚式の招待状を確かに見たよ。うちの大学とそっちの大学は隣同士って事もあってサークルも連結が多いし、人がよく繋がってる」 「それは…」 「足掻くな。どう足掻いてももう無駄な事だ。 刻むように言い切った、人の耳に良く通る声質の 「…くそ…、何でこんな」 持ち上げた両腕の、顔を隠すようにして握った二つの拳が、強く震えているのが見て取れる。 「お前――――――」 少しだけ、トーンを落とした それは睨みのようであり、虚ろとも見えて…、 「オレに―――――― 私を囲う…? 何かを考えなくちゃいけないと思うのに、二人から次々と齎される情報の処理で精一杯。 その中でふと思い出したのは、元カレの 「…わからない」 「いつも、不安だった…。 嘘…。 淡々と紡がれたのは、私が知らなかった彼の姿――――――。 "目立たないで、俺の 私にとって好都合だったあの独占欲は、この人にとっては防衛手段だったという事? イベントに積極的じゃなかったのも、私がお洒落れする事にあまりいい顔をしなかったのも、 「いつも、人の目に晒されているようなプレッシャーがあって…」 ――――――ああ、この人は…。 私と同じように 「…」 気づけなかった彼の本音に、どこかでショックを受けている自分がいる。 本当に私は、自分だけだった。 狭い世界の中心に生きる、ある意味自分本位な存在だった。 付き合っていた彼の事すら、ただ私が静かに生きる 「それでもお前は、 「え?」 声を上げたのは私だ。 久しぶりに、横目で僅かに私を見下ろす 向けられたその眼差しの優しさと、秘められた蕩けるような甘さに、状況を忘れて胸がときめいてしまう。 「お前がうちに入社してきたって聞いて、オレも日本に戻った。ちょうどシスオペで移管プロジェクトが発足して、その選択肢があったから」 「 どうして…? そこまでされる私は、 学生時代にも、全然覚えがなくて――――――、 「いつ、会ったの…?」 「…秘密」 微かに口角を上げた 「そうやって守りながら耐えた二年を、遠距離になってからの二年足らずでふいにしたのはお前だ」 く、と。 彼の眉間に縦皺が寄った。 「 それに対する無言が、明らかな答えなのだと理解する。 "私と離れる事で楽になった" 心のどこかが、僅かに抉られるような単語だ。 離れて楽を感じるほどに、辛さを与えていたらしい私の隣。 「楽…、そうとも、言えたのかもしれない。確かに、自由は感じた。好きに呼吸が出来る、 ぼんやりと、まるで溜め息のように吐き出されてきた彼の言葉に、じわりと涙が溢れてくる。 それは決して、告げられた事実に傷ついて悲しいわけじゃなくて、大きく湧いてきた彼に対する同情が源の涙。 私が傍にいる事で、一体どれだけの糸を、心の中に張り巡らせて過ごしていたのだろう。 自分を取り巻く世界に対しての嫌気を、私と同じように彼も感じていただなんて――――――。 「その自由になった隙間に受け入れた、お前が選んだ幸せだろうが、その婚約者は」 「俺は!」 一歩こちらへと進みかけた彼を制するように、 「そうやって掴んだ幸せがお前にはある。既に道は分かれてんだ、もう二度と、オレ達には関わるな」 言いながら、私の肩を掴んで けれど、迷いが生じる。 このまま、物別れで済ませてしまってもいいものかどうか。 「 慣れ親しんでいた筈の元カレの声が、まるで別の誰かのもののように聞こえてきた。 それくらい覚えのない切羽詰まった様子の声に、思わず体が震えで応えてしまう。 「大丈夫だ」 背後で頭上からそう囁いた、 物理的に、髪の毛に唇が落とされたような感触もわかる。 その"大丈夫"はどういう意味のものなのか。 自分が守っているから怖くないよ、という意味の大丈夫? それとも、何があっても自分は味方だからと、背中を押す意味の大丈夫? ゆっくりと後ろを振り返り、 ――――――ああ、この人は…、 何て、優しい眼で私を見るんだろう。 何て、幸せそうに私を見るんだろう。 本当は、知っていた眼差しだ。 けれど私は、認めてしまう事は期待をしてしまう事、つまり、それが虚実だった打ちひしがれる未来を恐れて、目を逸らし続けていた。 "また週末に、オレを買ってよ、西脇 思いもかけない再会から、 "これから先、オレ以外の男に抱かれようなんて、そんな事思いつきもしないくらい、天国の先まで連れてってやる" 言い聞かせるような繰り返しの愛撫、 "好きって言えよ" 掠れた声、 "ねぇ、サヤ、あと何回抱いたら、全部オレに染まんの?" 時々、怒りを孕んだような表情と、 "ほんと、お前のそういうトコ、くらくらするわ" 困ったような微笑み、 "実は、これが一番楽しみだった" 繋ぎ合った手の感触、 "好きだ、 まるで祈りのように、優しく紡がれていたその言葉。 「大丈夫だ」 頭に置かれた "――――――そんな事、言うな" 逸美と話した事で、可能性として考えていた存在と、目の前の あの事件の時、蹲って泣きじゃくっていた私を現実に戻してくれたのは、もしかして――――――、 「…ありがとう、 でも、その答えはもう要らない。 私は、ゆっくりと 「ごめんなさい」 元カレに、心から伝えられるのはこの言葉だけ。 「本当に、ごめんなさい」 あなたの、苦しみに気付けなかった事。 気づこうとも、していなかった事。 そして今、慰める術を今の私は何一つ持たない事に対して――――――、 「ごめんなさい」 ゆっくりと深く、私は頭を下げた。 「 目を閉じた私の耳に、混乱を孕んだ彼の小声が途切れ途切れに届いてくる。 その背景として微かに聞こえてくる歩行者信号の音。 コンビニの前に集う人たちの笑う声。 そして、私の胸を確かに過る、この人と過ごした長い時間。 そこから拾える、思い出と呼べる幾つかの風景。 風が吹いて、地面に向かって垂れた髪が揺れる度に、私という存在を形成していた何かが、サラサラと色や形を変えていく。 「――――――もういいだろう?」 全てを掬うように言った "もういいだろう?" それは、私と彼と、どちらにも向けられた言葉に聞こえて、 「…ぅん」 目にしてもいないのに、心配そうな そこにあったのは、今にも泣き出しそうな元カレの顔。 昔の私なら、 寄りを戻す事は無くても、傍に行って、慰めくらいは友人として口ずさんだのかもしれない。 でも今は――――――、 ああ、また違う私だ。 この感覚は知っている。 初めてホストの 薄情だと、そう考える自分もいるけれど、長く付き合ってきた筈の彼を見ても何も感じない。 確かにあった信頼を最悪の一手で裏切られた私はちゃんと、傷を乗り越えて前に進めていたんだと、自分の存在に手応えを感じられた。 「――――――さよなら」 会釈しながらそう告げて、彼に対しての決別の幕を、自らの瞼で下ろしかけた時だ。 彼が、低く呻いたのは。 「…こんな筈じゃなかった…」 それと同時に、後ろからは 「もう他人だ。あいつの言葉は聞かなくていい」 「ぅん…」 応えるべきは 促されるまま、私はマンションへと踵を返しかけたけれど、 「俺はもっと、平穏に、平凡に、高望みなんてしない、そんな学生時代を送って、地元の公務員目指して、 聞こえてきた内容に、ツキリと胸が痛む。 それはまるで、私と出会った事によって人生の指標が狂ってしまったと言わんばかりだ。 色んな思いが巡るのに、喉奥が僅かに苦しさを覚えて声さえ出せなくなってしまった私の肩を、 「それもこれも…みんな、あんたが…」 急に歪な光を込めた彼の目が向いたのは、意外な事に 「 体中から絞り出すように告げられたその言葉に、思わず呆気に取られてしまう。 臆病風? 何の事だろうと目を見開いた私がそれを脳内で反芻したと同時に、 「全てはオレのせいだと言うつもりか?」 「ああそうだよ! あんたがあの時、怯え切った 「対比効果、ね」 ふと囁くように笑った 対比効果…って、あれよね? 全く違う両方の味があって一緒に摂取した場合、どちらかをより一層効果的に味わえるって現象…だっけ? 「どうせこんな風に奪うなら、あの時にさっさと奪ってくれれば良かったんだ! なんで、五年も経った今――――――」 多分、彼が知っている真相には、私の想像ははるかに届いていなくて、 でも、 ――――――それでも、 「…言いたい事はそれだけか?」 呆れを存分に混ぜた 少し前までの私と一緒で、自分から何かを変えようなんて努力を今までしなかったクセに、ここにきてまだ、この状況を誰かにせいにしようとしている。 恥ずかしいくらいに愚かな言葉を紡いでいるという自覚がないだろう彼は、それを聞く度に思い出を失くしている私の心情に、もしかしたらずっと気づけないのかも知れない。 「ったく、恋人がいるのに浮気なんて下種な真似、出来る奴かと不思議だったが、思ったよりも中身が無かったんだな」 「何だとッ!」 「あの頃、オレが 肩を合図されたような気がして 「どっちにしろ、五年分なんて、埋めるのに時間はそう要らない」 唇の片側が、妙な意味を含んで上がったのに、ドキリと胸が高鳴る。 「もう、埋まってるかも知れないしな」 「…ぅ」 …否定できないところが恥ずかしい。 だって、元カレと一緒に過ごした事よりも、すべて鮮やかに思い出せるから。 昨日の私も、その前の私も、 肌の香り。 キスの味。 甘い言葉、意地悪な言葉。 それにエッセンスとなった優しい微笑み。 一緒に見た空の色。 一緒に感じた海の香り。 一緒に楽しんだ公園の緑。 そして、いつだって私を見つめてくれる、優しい眼差し。 思いを馳せれば、直ぐに眩しく思い出せるから。 それは、最近の事だからじゃなくて、 一つ一つ、 目を逸らしながら、それなりに一緒に彼氏彼女として時をやり過ごしていたのとは全く違う、――――――恋人だと、そんな明確な関係で結ばなくても、 「けど俺は!」 これ以上、何をどうしたいのか。 尚も食い下がろうとする元カレに対して、きっと引き際を失っただけなのかも知れないと、何となく哀れみが湧いてきたその時、 「…仕方ねぇな。――――――ちょっと待ってろ」 「 私の頭をポンポンと叩いて、眉間を寄せた元カレの前に駆け寄った 「お前な、いい加減にしとけ」 「あなたには…ッ」 「おい」 「…、」 やり取りが続く程に声が小さくなっていく。 出来るだけ聞き耳を立てたけれど、最後はほとんど聞こえなくなった。 急に外野に放り出されたような疎外感を全力で濁しながらその様子を眺めていると、次第に見開かれた彼の目が、間をおいて、一瞬だけチラリと私に向けられて、 「…え?」 そして突然、そそくさと背中を向けて歩き出した。 まるで一目散とも呼べるその姿に、私はただ目を瞬くしかない。 「――――――待たせたな」 駆け寄ってきた 「 「秘密」 「え…?」 また秘密。 この人の中にはどれくらい、私に秘密にしている事があるのだろう? 「 「どうにもならない」 それは、明とも暗とも受け取れる表現で。 「開けて、 顎で示されて、セキュリティを解除する。 「残りは決めたのか?」 「え?」 「あと六つ残ってるだろ?」 何の話かと思考をかき混ぜて、二人の間にある例の支払い項目だと思い至った。 「まずは、それを片付けよう。――――――何がしたい? エレベーターホールで、いけないと思いつつも、私の頬を撫でてくる 呼び戻しボタンを押して、灯ったそのオレンジを見て意識を逸らしながら、私は言った。 「…じゅ…」 「ん?」 「…11番」 鈍い振動音を出しながら、扉が開かれる。 「――――――フェラか。いいな」 耳元で囁かれながら背中を押されれば、まるで密室に囚われるような錯覚を覚えた。 怖いような気もするし、息苦しくなるまで、二人だけで閉じ込められたいような気もする。 「それから?」 機械的な視線以外は感じられない空間で、 「52番…」 「シックスナイン。好きなプレイだ。この前、成り行きでシタのも良かったけど、今度は絶対にお前が上な」 「え? 上? 私が?」 つまり私が、 それは、何て言うか…、 「それから?」 体を傾けてきた 「ひゃ…く、13番」 「113番か」 「ん…」 少し粘着の効いたキスを肩に近い部分にされて、ゾクリと体のどこかに痺れが走った。 「ああ、そう言えば、目隠しはどっちがされる方かは書いてなかったな」 エレベーターの壁に背を預けた 上がり始めた感覚に、気分も、不安定に上昇した。 「するのは、 「 …何となく、言葉に意味が含まれたような気がしたけれど、興奮しているせい…という事にしておこう。 腕を意識して持ち上げて、 素肌でしがみつく時とはまた違う感触に、愛おしさが湧いてきた。 抱き合う二人の距離がどこもかしこもゼロになって、 ぴったり。 違う人間がくっついた事に対する、感情での表現。 気持ちがあるからこそ、知れる関係性の一つだと自然に思い至る。 これが、お互いに心身を委ねた恋人同士の感覚なのだと、言葉もないまま 「25番」 繋がりたいと、願うのは本能。 「… "お前が本当に女になるのは、今だからだ" 初めての夜に、 「それから、43…」 続けて言った私に、 この人に抱かれる。 この人と分かち合う。 セックスだけじゃない。 それと並行して得られる全ての者を、好きな人と共有する悦び。 歓び。 「ベランダ、玄関――――――場所を変えただけで、する事は一緒だ。なら、ベッドの上で、もういいか」 今度は、額に長いキスが落ちる。 「…うん。私も、どっちでもいい」 私の頭を撫でた 形を変えられた私の唇に、食むような短いキスが落とされる。 「――――――それを今日で全部終わったら、明日は水族館に行って残り78回のキスをしよう。その帰りに、アウトレットに寄ってウィンドウショッピング」 水族館が89番と、そしてアウトレットが50番。 「オレもお前も、これで十ずつ出揃ったな」 「それで、終わりなの…?」 手を引かれて廊下に出て、口を突いて出たしまった本音の問いに、振り返った 「 なんて意地悪な質問。 その眼差しを見返していれば、元カレが言っていた言葉が不意に気になった。 「…その目、…黒じゃないの?」 いつも、吸い込まれそうだと惑う程に、不思議な光を放っていたその黒水晶の眼差しは…、 「…知りたい?」 「…知りたい。 どうしてだろう。 言葉にすると泣きたくなった。 それくらい、何も知らないんだという寂しさ? 私達はそれだけじゃないと、強がりたい想いの先? 「 「もっと、知りたい――――――」 震える言葉をどうにか紡ぎ終えた私に、 「もちろん」 「教えてやるよ、一つずつ」 「…え?」 一つずつ…? 「これから俺に抱かれる度に、――――――お前が呆れるくらい、長い時間をかけて、ゆっくりな」 「…」 その言葉が示すのは、ここから先の未来の事。 「…うん」 幸せに満ちた泣き笑いを浮かべた私の頬を、 「まずは一つ」 「え?」 反射的に首を傾げた私に、 「――――――お前の事がずっと好きだったんだ、 「 信じられない。 好きな人からのこの言葉の破壊力。 「日本を離れている間も、何かにつけ思い出すのはお前の事だった」 嬉しい…、と。 人の感情が、まるでフレッシュジュースのように爽やかに溢れ出る瞬間は、そう経験出来るものじゃないと思う。 最初は、女として危険すら感じた、決して手に負えそうにない食中花。 けれど、そんな彼から漂ってきたのは、ただ柔らかく私を包む、甘く芳醇なイランイランの香り。 夜に咲く――――――。 まさに、冠した文字の全ての意義を、花びら一枚一枚に体現した美しい花のような存在に、クラクラと思考が酔わされる。 「…好き」 「 啄むようなキスで、その香りを私の肌に移して来るこの室瀬 「私も、好き…」 「 長い溜息が、頭上から落ちる。 「やっと、全部オレのものだ…」 ふと漏れたようなその言葉に、 「…ふふ」 思わず笑いを噴き出してしまっていた。 「何だ?」 「え? えっと、…何でもありません」 「… ちょうど、玄関を開けて中に入ったタイミングで、私に体を壁へと押し付けてくるこの人は、 「…今までの事、何て言うか、色々と、…急に可愛く思えちゃって…」 「…やめろ」 「だって」 「下の口塞ぐ前に、その口だな」 「あ、ちょっと待って、ゃ、… これから夜が来る度に、その秘密の花を手折っては、こうして二人のベッドに添え咲かせていくのだろう。 ずっと、 ずっと――――――。 「――――――というワケでして…」 |