小説:虹の橋の向こうに


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主虹の赤

 走って、

 走って走って走って、


 「はぁ、はぁ」


 こんなに走ったの、中学の体育祭以来かも――――――。


 「はぁ、はぁ、はぁ、――――――ッ」


 激しい息の合間に唾液を飲んで、


 「・・・ぁ」


 目の前に続く長虹橋に、心臓が泣きそうになるくらいに痛くなって、胸の奥で悲鳴が上がった。



 初めて、哲君に会いにこの橋を渡った時、あたしの心は期待と不安で一杯だった。

 茶色の短髪、笑うと目尻が下がる事、

 『運命感じない?』

 そう言った時の、あたしを真っ直ぐに見つめてきた、自信に満ちた表情と、黒い眼差し。


 あの時は、哲君の事、それだけしか知らなくて、

 それでも、これからどんな恋が始まるんだろうって、凄くドキドキして・・・。

 『俺の彼女』

 友達にそんな風に紹介されて、

 男の子と隣同士に並んでご飯食べるのも初めてで、

 好きとか可愛いとか、何度も何度も言われて、ずっと胸がキュンキュンしっ放しで、


 『いいだろ?』

 『――――――うん』


 ――――――初めてのキスをした時、体中が爆発しそうなくらい、指の先まで動悸で痺れてた。



 一週間、ずっとその事ばかり考えて、

 次に橋を渡って行って、哲君の顔を見た瞬間、何だか胸がいっぱいになっちゃって、


 『いいだろ?』

 哲君に髪を触られて、何度もキスをされるうちに、


 嫌われたくないって思った・・・。


 ――――――きっと・・・、

 "白"のあの子達なら、きっと、



 『・・・うん』



 手を引かれて行った哲君の部屋は、野球の色と、ゲームの色。

 『好きだよ、ミオリ』

 『・・・』

 話す間もなく、ベッドに押し倒されて、

 『あの、哲く・・・』

 『可愛い、好きだよ』

 『・・・』


 怖くて、痛くて、

 あたしは、哲君の動きが止まるまで、ずっと目を閉じていた。




 最後に橋を渡ったあの日、あたしの世界はキラキラしてた。



 あのね、もうすぐあたしの誕生日なんだ。哲君の誕生日はいつ?

 それから、哲君の家にあったあのゲームソフト、作ったの、パパなんだよ。

 あとね、今度、瑠璃ちゃんっていう、あたしの親友を紹介したいの。



 紫、藍、青、緑、黄、橙、赤。


 長虹橋の手摺の色が変わる度、もうすぐ彼が住んでる街に入るんだって心が浮いて、

 あたしが憧れて見つめていた、恋をする白いスカーフの彼女達みたいに、きっとこの橋を渡るあたしの姿も、輝いているんだと嬉しかった。





 『――――――お前、面倒くせぇ』



 パリン。


 あたしが夢見ていた世界は、

 たった一言で全てが崩れ落ちる、薄いガラスの世界だったと知ったのは、その直後――――――。




 それが、1年前のあたしの恋。
 あっという間だった、あたしの初恋。

 「・・・」


 でも・・・、あれを恋と呼んでもいいのかな――――――?


 それすらも、判らなくなる程の、希薄で哀しい思い出に、あたしはまた泣きたくなって、

 長虹橋から目を逸らし、家に帰ろうと、右に曲がりかけた時だった。



 「美織!」


 あたしの名前を呼ぶ声に、全身が呼吸を止める。


 「話、しよう、美織」

 「・・・」


 ゆっくり振り返ると、そこには、あたしと同じように全速力してきたらしいレント君が、肩を上下に揺らして立っていた。


 「話、したい、美織」

 「・・・レント君・・・」

 右腕が、あたしへと伸ばされる。

 いつもなら、自然にそれを掴んでいたあたしの左手は、少しも動かすことが出来ずにいて、

 「来て」

 あたしの手を、いつもより乱暴に掴んだレント君の手はいつもと違って汗ばんでいて、




 これまで何度か積み重ねてきた、優しかった二人の時間とは、少しだけカラーの違うこの雰囲気。


 ここからまた、世界が変わる。

 そんな予感が、あたしの胸をギュッとさせた。



 今度は、どんな真っ暗な世界に、落とされるんだろう――――――。



 泣きそうになりながら、レント君に手を引かれるままたどり着いたのは・・・、


 あたし達が初めてキスをした、公園だった。






 「まずは、謝らせて」


 ベンチに並んで座った途端、レント君はそう言ってあたしの顔を覗き込んだ。


 「・・・何を・・・?」

 震えてしまったあたしの声を慰めるように、握っている手に力を込めたレント君。
 指を絡められた左手に、じんわりと、レント君の温もりが伝わってくる。


 「哲を知ってるって、・・・言わなかった事」

 「・・・あたし、そういうの、ほんとバカだから」



 瑠璃ちゃんは、直ぐに気づいた。

 『だって、円で同い年って事は、"あいつ"と――――――』


 「同じ高校で、同じ年なら、普通、気づくよね、ほんと、あたし・・・」


 哲君の時だってそうだった。

 周りが見えない。
 状況が見えない。

 正しい判断が、考えが、


 目の前の恋に夢中になって、一切できなくなってしまうんだ――――――。



 「ほんと、・・・バカだから・・・、周りが、見えな、」


 だから、またこんな風に、


 「大丈夫。美織がオレの事しか見なくても、オレがちゃんと周りを見てやるから」


 こんな風に、騙されてしまいそうになる――――――。



 「・・・エッチ、したいの?」

 「・・・え?」


 レント君が、目を丸く見開いた。


 「だから、近づいたんでしょ・・・?」

 「美織・・・」


 『え? 嘘、付き合ってひと月も経ってないんでしょ?』
 『っつうか、会うの3回目でベッドへGo、だよな? 哲』
 『へぇ? 特進も意外と軽いんじゃん』
 『きゃはは、ほんとだよ。うちらを馬鹿にする教師に聞かせた〜い』


 あの人達の、笑い声が脳裏に蘇る。


 「哲君から・・・、簡単にさせてくれるって聞いて、それで・・・」


 尻すぼみになっていくあたしのセリフ。

 大声で、泣きそうだった。

 何で、こんな事、言ってるんだろう、あたし――――――・・・。





 「――――――うん、したい」

 「!」


 レント君の答えに、ズキンと胸が軋む。



 ・・・やっぱり、そうなんだ――――――。


 じわりと、涙が目に浮かんだ。



 『美織がくれた幸せを、ずっとオレの中にためていく。そんな恋を、美織と、してみたい』

 『美織の手の感触、しばらく会えないと、時々恋しかったりする』

 『マジで、好きだから、美織』

 『オレを信じて』



 男の人は、そのためには、あんなに優しい言葉を紡ぐんだ。

 心にも無い、愛の言葉を、さらさらと紡げちゃうんだ――――――。



 「・・・い」


 いいよ、と。


 痛い喉を広げて、投げやりに口にしようとした時、




 「好きな子を抱きしめたいって、思うのは当たり前だろ?」




 「――――――え?」


 茫然と呟いたあたしに、レント君は真剣な眼差しで、刻むように応えた。


 「美織を好きだから、そういう事したいって、思うのは当然だろ? 一応、健全な男子高校生だし・・・」

 「・・・」

 「けど別に、今すぐってわけじゃ無い。いつか美織が、ちゃんとオレの事を好きになって、――――――二人の気持ちがちゃんと寄り添ったら、多分、自然にそういう事になると思う」


 あたしの左手が、強く、強く、握られた。


 「哲と話すようになったのは、ほんとに最近なんだ」

 「・・・」

 「2クラスしかないけど、同じクラスになった事もない」

 「・・・」

 「けど、知り合いだって美織に言うのは、もうちょっとオレの事、知ってもらってからの方が、いいと思った」

 レント君が、左手の指であたしの前髪を、視線のルートから除けてくれる。


 「こんな風に、美織に誤解されて、傷つけたくなかったから」

 「レント君・・・」


 あたしを映した焦げ茶色の瞳が、真っ直ぐに向けられて、


 「・・・結局、傷つけたけど」

 ふと、レント君が浮かべたのは、いつもの優しい笑顔で・・・。



 「・・・嫌じゃないの?」

 あたしの口から思わず出たのは、そんな疑問。


 「何が?」

 「何が、・・・って・・・、あたしが彼女だなんて、同級生に・・・、」



 『あ〜、じゃあさ、お試し期間、終了。な? ミオリ』
 『あはは、何それ、クーリングオフみたい』
 『え? なにそれ』
 『期限内なら、返品できるんだって』


 「・・・哲君に、・・・わらわれ・・・、・・・」


 ・・・これ以上、なんて、言えばいいのか判らない。


 というよりも、あたしが今、いったい何に拘っているのかも、

 何に傷ついているのかも――――――・・・。


 俯いて、黙ってしまったあたしの頭上で、微かにレント君の息が漏れる音がした。


 「あのさ、美織」

 レント君が、握っていたあたしの手に、更に指輪をしている左手も添えて、しっかりと包み込んでくる。

 「美織が言ってるのが、1年前の事なら――――――」



 "欲求不満の"赤"が、"白"のフリして円工業の男子を漁った"――――――


 きっとそれが、噂を知っている生徒達の中で認識されている、あたしという人間の価値――――――。

 「美織を、見てたらわかる」


 ――――――わかる?


 「オレは、悔しいくらい、解ってる」

 「・・・え?」


 レント君の苦しそうな表情の意味が、その言葉と同じくらい、理解できなくて、


 「お前はあの時、――――――ちゃんと恋してた。・・・ちゃんと本気だった」

 「レント、く・・・」

 「あの時の、哲に向けられてたお前の気持ち、スゲェ嫉妬するけど、――――――けど、オレは わら わない」

 「・・・」

 「ってか、わらえねぇ・・・」



 レント君の言葉が、過去のあたしにゆっくりと染み込んでいく。


 そうだよ。

 あたしは、ちゃんと好きだったよ。


 たった3回で、あたしの全部をあげていいって、

 強引さに流されたんだとしても、覚悟してそう思っちゃうほどに、あの時のあたしは、ちゃんと哲君の事が好きだったの。



 「だから、今度はオレにぶつかってきて欲しい」

 「――――――え?」


 力強く綴られたレント君の言葉に、あたしは驚いて顔を上げた。
 あたしを受け止めてくれる、優しい光を灯した、焦げ茶色の瞳。


 「あの時以上の気持ちで、オレを好きになって欲しいんだ――――――」

 「・・・レントく」

 「オレは、オレの全力で、美織を受け止める覚悟、出来てるから」

 「・・・ッ」



 一週間の自宅謹慎中、あたしが後悔したのは、哲君と出会った事じゃなかった。

 哲君と、そういう行為をしてしまった事じゃなかった。


 あたしは、どうしてきちんと考えなかったんだろう。
 どうして、哲君とちゃんと向き合わなかったんだろう。


 "赤"のスカーフはあたしの誇り。

 大好きな勉強を、時々は嫌いになってしまいそうな程、努力してきたあたしの成果。


 堂々と、それを告げて、

 "こうしてスカーフ落として出会うとか、運命感じない?"

 哲君が最初にくれた言葉を、しっかりとステップを踏んで積み上げていけば良かった。


 "あたしのスカーフは"赤"だけど、落としたスカーフが"白"だったから、哲君はあたしを口説いたんでしょ?"


 そんな軽口で二人の出会いを語れるくらい、


 "だから、今のあたし達があるんだよね"


 未来で、そんな事を語れるくらい、もっと上手に、恋が出来たなら――――――。



 後から後から、

 ああすれば良かった、こうすれば良かったって、

 振り返ると、そんな事ばかり・・・。



 「―――――あたし、・・・ヘタだから・・・、きっと、レント君とも失敗、しちゃう」

 小さな嗚咽を挟みながら、あたしが告げた、その言葉に、


 「え・・・と、え、・・・何が・・・?」

 何故か、困ったような声音になったレント君。


 「こ、恋、・・・うまく、できな、」

 「あ・・・、――――――そっちね」

 コホン、と咳払いが一つ。


 「・・・?」

 あたしが首を傾げると、そこには、柔らかい笑みに唇を結ぶレント君の顔があって、


 「オレも、恋をするのは二度目なんだ」

 「――――――え?」


 突然の告白に、あたしは一瞬、戸惑ってしまう。



 「だから、お互い、今度はもっと上手に、恋が出来ると思わない?」


 「・・・」


 「それに、さ」




 照れたように、鼻の頭を指先でかいたレント君は、苦笑交じりに、こう言った。






 「オレ・・・、美織を口説くの、1年以上も我慢してたし、これ以上待つのは、ちょっと無理――――――」








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