小説:虹の橋の向こうに


<虹の橋の向こうへ 目次へ>


⌒ 過剰虹 : 煌

 ――――――
 ―――――


 「煌さん。美織さんです」


 助手席からの声に、手に持っていた書類から顔を上げる。

 薄いスモークの車窓の向こうは長虹橋の入口の景色で、僕が乗った車は、横断歩道の遮断待ちの時間。
 ちょうど、樫崎家が入っているマンションの足元にあたるその場所は、最近、可愛い妹分の成長を見れる場所でもあったりする。


 きっちりとボタンを留めて着込んだピンクベージュのダッフルコート。
 ご両親の、ミサオさんにも美冬さんにも似ていない、隔世遺伝らしい不思議な光沢のある黒髪。

 愛嬌の窺える垂れ目は、本人には少しコンプレックスらしくて、僕の婚約者である あお と初めて会った時、メイクアップ講座だとかで1時間ほど部屋を閉め出された。

 睫毛を上げる事で、男からすると、ほんの少しだけ変わる印象も、当人にとっては魔法に匹敵するらしいから、女の子の 精神 メンタル は本当に可愛い。


 美織に初めて会ったのは、僕が7歳の時。
 わけあって両親共に入院生活を送っていた時、沖縄から駆けつけてくれた父さんの親友、ミサオさんが連れてきたのが切っ掛けだ。

 お兄ちゃんとして世話を焼いているうちに、気が付けば、僕の方が3歳の美織に支えられていて、
 あの美織の、無垢で真っ新な瞳に見つめられていると、自然と自分に鞭が入った。

 美織には、まるで鏡のような力がある。
 他人を、素直にもするし、意固地にもする、


 諸刃の力――――――。



 1年前。

 そんな純朴な美織を、1つの出会いが傷つけた。

 恋に恋していた美織を、『危なっかしい』と あお が気にしていた事があったけど、予感的中。
 初恋に流された美織は、自分なりに精一杯、傍から見れば痛々しい経験をして、静かに、大人への階段を一歩上がった。


 その直後、たまたまミサオさんを迎えに行く予定だった僕がこの長虹橋で美織を見つけて抱き締めた時も、大声で泣く事もなく、ただポロリと大粒の涙を落としただけで、

 『大丈夫』

 震えるように息を吐き、ホッと笑って見せた美織を、僕は鮮明に覚えている。


 そんな美織が最近、新しい恋を見つけたらしい。

 長虹橋の先を見つめて、一歩を踏み出そうかどうしようか、とても迷っているみたいで、

 その表情には、1年前のトラウマがあるんだろう。

 きっと、この橋そのものが、美織にとって、新しい扉の象徴なんだと思う。




 ああ、でも――――――、



 「美織」

 僕は車の窓を下げて、その扉の前で短く息をつき、マンションの方へと踵を返しかけた美織に声をかけた。

 「煌くん!」

 駆け寄ってくる美織の息が、白く膨らむ。

 「どうしたの? パパに用事?」

 「今日は違うよ。乗って。どこかでお茶しよう」

 「うん!」

 助手席から降り立ってドアを開けてくれた染谷に促され、後部席の僕の隣に乗り込んでくる美織。
 そのタイミングでちょうど進行方向が青になり、染谷が乗るのを待った後、車はゆっくりと走り出した。


 「 あお さんは?」

 「来週までアメリカ。今はロスじゃないかな」

 「今年のクリスマスはどうするの?」

 僕ら二人の動向を尋ねる美織の目はいつも輝いていて、

 どうやら、僕と あお が紡ぐ恋人同士の時間が、美織にとっては憧れらしい。


 「今年はハワイ。来年オープン予定のホテルがあるから、その視察も兼ねてるんだけど」

 「そうなんだ! ハワイかぁ」

 ふんわりと笑った美織に、僕は少し肩を上げる。

 「沖縄で生まれ育った美織には、あまり魅力はないかもね」

 「そんな事ないよ! 確かに雰囲気は沖縄と変わらないかもしれないけど、やっぱり文化が違うから」

 「・・・良かったら美織も行く? その気があるなら、ミサオさんには僕から話すけど」

 「え? ・・・あ、の・・・」


 トーンダウン。

 あからさまな意地悪に、助手席の染谷の肩が僅かに揺れた。


 僕の可愛い妹分が藤森レントと付き合っている事を僕は知っているけれど、


 "美織本人"からはまだ聞いてない。

 それに、この態度から察すると、藤森レントが僕を見知っている事を、まだ美織は知らないようだし、
 さっき見た、橋の向こうに行く事を思い切れないようだった美織の表情の事も合わせると、"うまくいっている"とはいい難いのかな――――――。


 「あ・・・あのね、煌くん」

 「ん?」

 「あたし、・・・す・・・」

 脇においたスクールバックをギュッと掴んで、顔を真っ赤にしながらも、勇気を振り絞ろうとする美織はとても可愛くて、

 「好きな人が出来たの」

 「・・・」


 ・・・ああ、解っていたけど、凄くショック。


 1年前、美織が初体験したと聞いた時も内心かなり落ち込んで、

 『なんだか、父親のミサオさんよりも酷い有様ね』

 なんて、見透かした あお にからかわれたけれど、


 これは、あの時と同等――――――、もしかしたら、美織に真正面から言われた分、それ以上かも・・・。


 「・・・煌くん・・・?」

 「あ、・・・うん。聞いてる」

 気を取り直そう。


 「――――――で、その彼とは、うまくいってるの?」

 「・・・レント君・・・、あ、その彼の名前なんだけど、・・・彼、凄く優しくて、本当に優しくて、一緒にいると苦しいくらいドキドキするんだけど、それと同時に、――――――ホッとするの」

 「・・・ふうん?」


 ・・・美織から一言零れるたびに、気分がどんどん重くなる。

 将来、僕と あお に娘が出来たとしたら、お嫁に出すのとか、絶対無理だろうな・・・。



 「でもあたし・・・、まだぶつかっていけなくて・・・」

 「――――――ぶつかる?」

 僕の聞き返しに、美織はコクリと頷いた。


 「レント君がね、言ってくれたの。去年の事も、あたしが本気だったって"ちゃんとわかってる"って・・・。だから自分には、それ以上の気持ちでぶつかってきて欲しい・・・って」

 「・・・」

 「受け止める覚悟は、出来てるから・・・って」

 ・・・へぇ?


 僕の前に飛び出してきた、まだ幼さは残るけれど、やけに端正な顔立ちと、サイドにクリーム色のメッシュを入れた赤茶の髪を思い出す。

 チャラチャラした見た目だけじゃ、美織に相応しいかどうかは判断出来なかった。
 それでも、ミサオさんが目印を付けるほどに認めているからには僕が邪魔をするわけにもいかなくて、
 染谷達に囲まれた状況で怯まなかった事への称賛も含んで、仕方なく美織の方に導く助言はしたけれど、美織を"隠す"かどうか、それについては、その後の二人を観察してからじっくり決めようと考えていた。


 けれど、


 ――――――どうやら、あの男は本物みたいだ。


  あお が聞いたら、きっと喜ぶだろうな。


 「――――――まだ、ぶつかっていけそうにない?」

 僕の言葉に、美織が、不安げな瞳を向けてくる。


 「煌くん、・・・あたしね・・・、1年前のあの日、・・・哲君に続くあの長虹橋を、すごくキラキラした気持ちで渡ったの」


 「!?」


 顔には、多分出さなかったと思うけど、内心、僕はかなり同様に近い激しさで驚いていた。
 美織が、1年前の事について自ら語ったのは、実はこれが初めての事で、


 「どんな恋になるのかなって、パパとママみたいに、ずっと仲良しでいられたらいいなって」

 「・・・」

 「あたしの中がまるで恋だけになって、体中ドキドキして、――――――ッ」

 言葉を詰まらせた美織の眼に、ゆらゆらと水面が張っている。

 「あの時の怖さ・・・まだ覚えてるの・・・」

 「美織・・・」

 「あんなにたくさん人がいたのに、あたしだけ、違う世界だった・・・。独りぼっちで・・・まるで氷の上を歩いてるみたいで、足が震えて、みんな笑ってて、・・・哲君の顔も、途中から見れなくて・・・」


 次から次へと、大粒の涙を流す美織の顔が、僕の景色の中でも歪んでいく――――――。

 「・・・」

 間違って嗚咽なんか出さないように、僕はゴクリと喉を鳴らして熱を飲んだ。

 深く深呼吸をする。


 ――――――ああ、ほんとに。

 こんなに感動して泣きたくなったのは、一体どれくらい振りだろう?


 美織。

 可愛い美織。


 ―――――気付いてる?


 「・・・それでも1年かけて、美織はゆっくり橋の上を歩いてきたね」

 「――――――え?」

 「美織、僕の言葉を覚えてる?」



 『美織には、時間がかかってもいい。自分で、自分の力で歩き出して欲しいんだよね』

 父さんとの酒の席で、息をつくように呟いた、美織の父親であるミサオさん。

 『自分の傷の正体が何なのか、それが判らない内に、想ってくれる奴に頼るのは、後々いい結果は生まないと思うし。・・・ゆっくりでいいから、自分に何が起こったのか、ちゃんと納得して欲しいんだ。オレと美冬も、遠回りしたけど、そうやって辿り着いたから』

 それが、美織に思いを寄せているという、保証書付きの知人の息子に引き合わせない理由。

 確かに。

 あの時の美織は、どんなに気丈な振りをしていても、抱き寄せれば、誰の甘さにも溶けてしまいそうだった。
 そんな状態で自分を想う男に慰められれば、本当の恋も知らない内に、依存という楽な現状に溺れてしまっていたかもしれない。

 傷を、奥へ奥へとひた隠しにして――――――。


 けれど今、



 「お・・・覚えてる・・・」

 「ほんとに?」

 コクリと頷いて、美織は、僕が過去に慰めに紡いできた言葉を復唱し始めた。

 「うん。・・・『まずは翼を休めようか。次の恋に出会ったら、笑顔で飛び立てるようにね』」

 癒しの、紫。


 それから、強さの藍。

 『涙は隠さずに泣いた方がいい。新しい扉が現れたらすぐに見つけられるように、瞳を綺麗に洗えるから』

 次は自由の青。

 『握った手を開いて、過去をそこに置くんだ。ふさがっていると、新しい恋を掴めないよ?』

 再生の緑。

 『穏やかなのが本当に幸せの形なのか考えてみようか。もっと輝くモノが、心の何処かにあるかも知れないしね』

 そして破壊の黄。

 『今の世界にヒビを入れてみたらどうかな? その隙間から、別の世界を覗いてみるのもいいと思うよ』

 奔放の橙。


 『ガラス越しに見る世界は、きっと想像に追いついてない。本物を追いかけて見たくない?』

 そして最後に、

 『そうやって一人で立てたんだ。きっと誰かとだって、ちゃんと歩けるよ』


 孤独の赤――――――。




 なぞらえたのは、

 紫・藍・青・緑・黄・橙・赤

 あの長虹橋で、美織の心が渡ってきた主虹の色――――――。




 「『・・・――――だからきっと、ちゃんと歩けるよ。美織の足を竦ませる、あの虹の橋の向こうにも・・・』・・・って」

 僕の記憶とほとんど違わない言葉を綴り終えて、美織が縋るように僕を見た。

 思わず、笑いが零れてしまう。

 「クス。ちゃんと届いてたね。長虹橋で会う度に、僕が美織に伝えていたメッセージ」

 「・・・うん」

 「そうして1年。止まる事無く進んできた時間の経過で、美織は確かに、一歩ずつ、あの橋を進んでいたんだよ」


 こんな言葉、洗脳に近い。
 本当にただの気休め。

 でも、前に進むための新しいドアは、もうきっと、美織には見えているから――――――。


 「その証拠に、美織は今初めて、あの時の傷を僕に見せたでしょう?」

 それこそが、美織がちゃんと進めている証。

 「やっと、傷の膿を出せるようになったんだね」

 「煌く・・・、ッ」

 僕がそっと美織の頬を撫でると、新しい涙がポロリと落ちた。


 「僕の出番はここまで」

 「え・・・?」

 「ここから先は、藤森レントに手を引いてもらうといいよ」

 「・・・」

 「そして本当の意味で傷が癒えたら」


 妹分の可愛い美織。

 君の背中を押せるのは、きっとこれが最後だね――――――。


 「そしたら、彼と並んで、二人の未来に歩き出して」

 「・・・煌く・・・」

 「あの長虹橋、主虹と副虹の意味、分かるでしょ?」

 コクリと頷く美織は、もう立派な、恋をする一人の女性。

 「ダブルレインボーは幸せのしるし」

 「・・・」

 「美織が誰よりも幸せになれるように、祈ってるから」

 「・・・煌君ッ」


 美織が僕の胸に顔を埋める。

 艶々の美織の髪の感触。
 毛並みの良いラブラドールレトリバー抱いてる気分。


 ―――――心地良い―――――。


 僕と あお のお気に入りだったけど、

 ・・・まあ、 あお はまだハグ出来る望みはあるとして、僕がこういう事するの、藤森レントは許さないだろうからなぁ・・・。


 「・・・」

 そう考えると、力を込めてギュウギュウ抱き締めてしまう。


 「こ・・・煌く、苦し」

 訴えられて、

 「・・・ああ、ごめんね」

 ほとんど棒読みで、仕方なく腕を緩めた。


 「・・・ありがとう、煌君。――――――あたし、頑張ってみるね」


 背筋を伸ばして、決意したように笑う美織はとっても綺麗で、

 「うん。それでこそ、僕の妹分」

 「うん! ――――――あ」


 ふと、美織の視線が外へと移る。

 「ここ――――――」

 「美織が前に行きたいって言ってたカフェだよ。おいで、特大パフェ、二人で食べよう」

 「嘘! 嬉しい!」


 でもま、こんな笑顔を見れる役得は、まだまだ手放さないけどね。

 僕の大事な妹分を攫っていく藤森レントの悔しがる顔を想像して、胸がスッとした僕の器の小ささには、
 この際、 あお に指摘されるまで、全然気づかなかった事にしておこう――――――。








著作権について、下部に明記しておりマス。



イチ香(カ)の書いた物語の著作権は、イチ香(カ)にありマス。ウェブ上に公開しておりマスが、権利は放棄しておりマセン。詳しくは「こちら」をお読みくだサイ。