小説:食べられる花


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Episode:雪




 「――――――あれ? 偶然だね、藤代さん」


 春物の新しい靴が欲しいなって、電車を乗り継いで一時間かけて土曜の朝からやってきたのは海寄りにあるアウトレットモール。

 午前九時を過ぎたばかりの今、ショップはまだ開いてなくて、あたしは同じ敷地内にあるレストランで朝ご飯を堪能中。
 三種から選べるメインディッシュ以外は全てバイキング形式。
 二十種類のサラダバーと、サイドメニューにしては充実し過ぎている八種。
 料金はちょっぴり高めだけど、質と量を兼ね合わせた数少ないお気に入りのイタリアンのお店。

 しかもこの春の季節。
 オープンテラスにこだわった可愛い丸テーブルが並ぶ、イメージはイタリアのストリートにあるカフェみたいな世界観で作られたこの席はあたしにとっての特別席。

 通い始めて三年。
 一人で買い物に来た時に見つけたこのお店に、誘ったのは梢ちゃんだけ。

 それ以外は一人。
 つまり、本当にあたしの憩いの場所。
 心の贅沢を満喫する場所。
 自分へのご褒美的な場所――――――。


 …あたしの聖域、だったのに…。


 「宮池さん、わぁ、偶然ですねぇ」

 顔を引き攣らせながらも、なんとか、誰もが知っている藤代雪を作り上げれば、白とレモンイエローの大きなストライプ柄のサマーニットが眩しいくらい似合う王子は、ニッコリと笑った。

 「藤代さんも良く来るの?」

 …も?

 「俺も良く飲みに来るよ。オーナーが大学の時の友人でさ」
 「そうなんですねぇ」

 今まで会わなかった奇跡が、今日でとうとう潰えたってだけの話か…。
 でも、飲みにって事は夜に通ってたって事だよね?

 「宮池さん、今日はどなたかとランチですかぁ? あぁ! もしかしてぇ、おデートですねぇ?」

 ほら、さっさとどっか行きなさいよ。
 話のネタに相手の女くらいは見てやりたいけど…――――――って!

 「いや、今日は一人。いつもは大学の奴らと集まるのがほとんどかな」

 徐に、向かいにあった椅子を引き、怖いくらい自然な動作であたしとの距離を詰めてからポジショニングした位置に腰を下ろした王子に、思わず息が止まってしまう。

 …何してんの、この人。

 「中に個室があってね。大体そこ」
 「へ、へぇ…個室なんて凄いですねぇ」
 「でも、そのせいで藤代さんとこうして巡り会うのを逃していたんなら、損してたなぁ」
 「…」

 ぞくッ。

 遊び半分だとしても、明らかに男女の駆け引きを仕掛けてきているその流し目に、鳥肌が立った。

 頬杖をついてあたしを見つめる王子のその表情には、微妙に好奇心をくすぐる何かが見え隠れしている。

 これを受けた女子は、かなりの確率で動揺するかもしれない。
 自分に気があるようで、でも常套手段しゃこうじれいのようにも聞こえて、でもまさか、いえそんな…って、乙女な心が揺らされる系。

 さすが王子。
 これで大抵の女は胸がときめいて傾くのかも。

 「やだぁ、宮池さんったらぁ」

 はあ、せっかくのプライベートなのにめんどくさい。
 あたしのオムレツ冷めちゃうじゃない。

 人の食事中を邪魔するってどうなの!?

 「もしかしてぇ、会社の女の子に外で会う度にそんなリップサービスしてるんですかぁ? ダメですよぉ。宮池さんはみんなの王子様なんですからぁ」

 こんな感じで釣った女を裏で食ってるんだとしたら、相当だわ、こいつ。
 もしかして取り巻きのお姉様方、全員が棒姉妹だったりして…。

 「まさか」

 あたしの思考とマッチした王子の否定の言葉に、ちょっとびっくりしたけれど、

 「藤代さんだから、仕掛けてるよ?」
 「え…ええぇ?」

 更なる驚きを何とか隠して、"ちょっと照れ笑い"な顔を作って見せながら、内心はかなり汗ダラダラ。

 「ほんとほんと」

 クスクスと笑いながら、王子の手があたしの髪を目掛けて伸びてくる。

 「ぇ…?」


 指が――――――、


 爪の先まで、見惚れてしまうような傷一つない綺麗な肌をした指が、あたしの髪の毛を握って擽った。


 「!」

 思わず硬直してしまった体に、どうやって鞭打とうかと考えを走らせる。

 何か、言わなくちゃ。

 何か――――――、



 「ああ…思った通りの感触。柔らかいね、髪」
 「…宮池、さ」


 駄目だ。


 「ごめんね、急に触ったりして。でも凄く気持ち良さそうだったから」
 「…あのぉ、そろそろ…、は…恥ずかしいですからぁ」

 周囲のみんなが見てますよ、ほら、という主張で視線を泳がせてみたけれど、王子はますます愉しそうに目を細めるだけ。

 「ぇっと…宮池、さん…」

 毛先十センチを、掌の中で丁寧に丁寧に撫でられて、


 「藤代さんの髪、気持ち良い――――――」

 手触りを、ただ堪能しているんだろう王子の言葉が、


 "気持ち良い?"

 に、聞こえてしまった。


 「…ッ」


 やばい…。

 ずっと危険だと思っていたけど、この浸食力は想定以上だった。


 この指、手――――――手首にかけてまでの甲のラインとか、


 本気で困る。

 息が詰まるくらい困る。



 なんでこんな綺麗なのよぉッ!?





 入学式に卒業式。
 授業参観に発表会。
 体育祭、文化祭、合格発表――――――。

 小さい頃から、誰かが優しく頭を撫でられるのを横目で見ながら育ったあたしだから、というのが理由なのか。
 人の手を、よく見るようになった。

 その過程で、好みの形やタイプが絞られてくれば、手フェチと言われても否定は出来ない。
 そんなに拘っているつもりはないけれど、無意識の内に選別はしていて、気に入った手の人がいれば、それなりにインプットされている。

 この宮池たくみの手は、その中でも上位三位に入るくらいあたしにとってはドストライクの綺麗な手。
 初めて見た時、思わず二度見してしまうほど、現実にはあり得ないと思っていた理想の手だった。

 ちなみに、一位と二位はTVの向こう。
 歌うお兄さんと、もう一つはアニメの中の手。

 つまり、あたしが生きる現実世界において、この人の手は実質ナンバーワンなわけで…。


 「――――――藤代さん?」


 手根骨《手首》から中手骨《甲》にかけての長さはあたしの中での黄金比。
 軽く握られた拳の中指の基節骨尖りは絶妙な大きさで、変色の無い均一な肌の色にその山の影がうっすら…。
 そこから中節骨までの骨のライン、末節骨の控えめ感、そして極めつけは見本にもなりそうな程に綺麗なこのアーモンド型の爪。

 なに、このピンク色…。

 きっと与えられる衝撃はキーボードのキーを叩くくらいのもの。
 傷つく事のない甘皮に隠された爪半月は小さくて、その可愛らしさに胸がキュンとしてしまう。

 指の横から見える指紋は、目を離せないフラクタル幾何模様を彷彿とさせて、
 脱毛してない箇所がその美しさと対比されて、ほんの少し猥褻に目に映り、ドキッとする。

 滑らかそうな皮膚…。
 大きな手…。

 その美しい指に、あたしの髪の毛がくるくると絡んで――――――、


 「好き?」

 「好き…」


 もっと、その手で――――――…、


 「じゃあ付き合おうか」
 「は、」


 …え?


 返事をする寸前で、ハッと我に返る。

 目の前の王子は、あたしの髪を握ったまま、柔らかく微笑んでいて、



 「え? あ、ぃぇ、その」


 やばい!

 意識飛んでた。


 っていうか、こいつ何て言った?


 「付き合う?」
 「つつつつ付き合いません!」
 「なんで? 今藤代さん、好きって言ってくれたのに…?」

 ほんの少し、眉尻を下げたこの表情。
 まるで被害者かのようなイメージを、敵《あいて》どころが周囲にまで刷り込んでしまう恐るべき工作攻撃。

 「えっと、それは」


 手が好き。

 なんて言ったら、それこそ弱味を握られるようなもの。

 頑張れ、雪ちゃん!


 「だってぇ、宮池さんは我が社の王子様ですからぁ。嫌いだって言う人なんかいませんよぉ」
 「それなら、君だけの王子様になりたいって俺が言ったら?」


 うげ。

 心の中であたしが低い悲鳴を上げたのと同時に、

 "きゃぁ"
 "いいな〜あの人"
 "王子様に告白されてるぅ"

 周囲からは小さな甲高い悲鳴が幾つも聞こえた。
 ちょっと、スマホ取り出して何書いてるのよっ! ――――――って、突っ込みたくなるくらいの景色のざわめき。

 「ぁ…あの」

 た…耐えられない、この空気。
 全部放り出して逃げ出したい。

 でも、冷めても美味しいオムレツ――――――、



 「それくらいにしておけよ、たくみ




 控えめに表現しても、" フリーズ硬直 "に近い状態で動きを止めていたあたしと、
 そんなあたしを上目遣いになるように俯き加減で見つめてきていた王子との間に割って入ってきた声の持ち主は、

 目の醒めるようなブルーのコーチジャケットと、上下に色をセパレートした白とグレーのTシャツ、そして黒のスキニーパンツ。
 薄茶色の髪と、焦げ茶の瞳が印象的なイケメンで、

 この人は知ってる。
 
 時々、この店で見かけてた人だ。
 奥さんと、まだヨチヨチ歩きの女の子をいつも愛おしそうに見つめている人。

 そして左手の薬指には、その繋がりを示す結婚指輪《マリッジリング》が煌いている。


 「あ〜あ、オムレツ冷めちゃったね。彼女だけじゃなくて、うちのシェフも泣いちゃうよ」
 「あ…、えッ!?」

 目の前から、食べかけだったオムレツのお皿が取り上げられて驚きで目を見開いていると、その人はあたしの視線を受け止めてから、ふんわりと笑った。

 「楽しい食事の邪魔をしたこいつの代わりにお詫び。オレからハーブハンバーグをプレゼントさせて?」
 「え?」
 「今日のメニューに入ってなかったから、来た時にがっかりしてたでしょ?」

 うわ、見られてたんだ。

 と、恥ずかしさを思ったのは一瞬。

 「いいんですか?」
 「もちろん。ディナー用だからサイズはちょっと大きくなるけど大丈夫?」
 「全然平気です!」

 このレストランの名物、ハーブハンバーグ。
 それはもう香りだけで涎が溢れる激ウマハンバーグで、あれなら三百グラムだって余裕でいけます。

 「アキ、勝手に会話に入って来るな」
 「いやいや、お前の押しに明らかに引いてたから、彼女。オレ多分救世主だって」

 言いながら、通りかかったスタッフを手招いて小声で指示を出すアキさんは、どうやら顔だけじゃなくて空気も読めるイケメンらしい。

 「君、月に一、二度うちに来てくれてるでしょ? 食べっぷり見る度に、いいな〜って思ってたんだよね。話してみたいなって。今日お近づきになれて嬉しいよ」

 王子の意味不明な態度の後だからか、
 それとも、このイケメンにラブラブの奥様がいるのを知ってるからか。

 普段なら笑顔の裏で舌を出しそうな口説き文句のセリフすら、気が付けば素直に受け止めて、あたしは頷いて応えていた。

 「あたしも嬉しいです。ここのお料理ってほんと美味しくて、それに、小さなお子さん連れにも直ぐに対応してくれるイタリアンって少ないから、見ていて接客が素敵だなって…。きっとオーナーがアキさんだからなんだって、凄く解ります」

 椅子を用意するのは当たり前。
 取り分け用の皿もお客様の方が驚いてお礼を言うのを何度も聞いた。
 離乳食もレトルトのものなら持ち込みOKだし、線引きをきちっとした上で、リスクとサービスも使い分けている。

 「はは。凄い褒め殺し。悪い気はしないけど、うちにも小さいのがいるからね。ナナオ――――――奥さんが友達とゆっくりランチ出来るところを作ってあげたかっただけなんだよね」
 「えッ!? じゃあここ、奥さんの為にオープンしたんですか?」
 「まあそれが全てってワケじゃないけど、理由の一つになったのは確かかな」

 うわぁ…見た目以上にベタ惚れだ。

 心底からそんな感想が浮かんだ時、アキさんから短い通知音が聞こえてきた。

 「――――――おっと、業者が来たみたい。たくみ、オレ行くけど、あんま無理強いしないでよ」
 「うるさい」
 「雪ちゃんも、ゆっくり食べてってね」
 「あ、はい。ありがとうございました」

 少しだけ早足でバックヤードへと進んでいくアキさんの後ろ姿を見送りながら、あれ? と思う。

 あたし…自己紹介したっけ…?

 不審に思いながら短い記憶を隅々まで浚っても、名乗った覚えは一切ない。


 「――――――まさか…」


 というより、ほとんど確信に近い状態で流出元だろう王子《はんにん》に向かって攻撃態勢を敷いたけれど、


 「そのしゃべり方が、素なんだね。藤代さん」

 「ぁ」

 不意打ちは、痛いところを突いてきた。








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