「雪ちゃん? どうかしたの?」 克彦君を膝枕の体勢に変えていた梢ちゃんが、炬燵から逃げ出していたあたしに気付く。 「あ、えっと…熱く…て?」 顔を真っ赤にしているだろうあたしのしどろもどろのセリフは、王子の次の言葉でかき消された。 「…奥さん。堂元さんも眠ってしまったようですし、俺達、今日はもう失礼しようかと思います」 「え? でもまだ年越しまで一時間ありますよ? 日付が変わる前にはかっちゃんも起こしてって言ってたから…」 「いえ。話の流れで大晦日にお邪魔してしまいましたけど、ご結婚されて初めての年越しですよね。無粋な真似をしてるかなってやっぱり気になっていたので、今日はもうここで帰ります」 …い、今更それ言う? すっかり酔いが醒めた気になっていたあたしは、今なら正論でやり返せると気合を入れたけれど、 「じゃあかっちゃん起こしますねぇ」 「いえ、本当にこのまま」 「…そう?」 眉尻を下げた梢ちゃんに、王子スマイルが炸裂。 「色々ごちそうさまでした。とても美味しかったです」 何となくタイミングを逸してしまった。 まあいっか。 過ぎ去った何もかもがどうでも良くなった気もするし…。 何を言おうとしたのか、判らないし。 桃の缶チューハイの最後の一滴まで飲み干しながら、ふと気づく。 ――――――ん? 俺達《・・》? ―――――― ―――― 世の中には、不思議な事はいっぱいあると思う。 科学で説明できない事や、身の毛がよだつような怪奇現象。 超能力者が活躍する漫画は大好きだし、幽霊を見る人はサイコメトラーだと思っている。 でも待って。 これはおかしい。 何が何でもおかしい。 「なんで…?」 目を開ければ見慣れた天井。 違和感のないベッドの馴染み具合、よく知る枕の感触。 窓からは陽光。 鳥の鳴き声は――――――絶対に幻聴よね、うん。 でも、 「ん…、ゆ、き…?」 あたしの全身を後ろから包み込んでいるこの存在は幻覚じゃない。 閉じ込めるように目の前で組まれている美しすぎる両の手は、間違いなく王子の手だ。 「雪…寒いから…」 少しでも動くと、王子の束縛力が強くなる。 す…素肌です。 素肌で触れ合ってるんですけどぉ、背中。 なんで? なんで? 梢ちゃんに見送られながら、半ば強引だった王子に手を引かれて、二人のマンションを出たのは覚えてる。 無下に振り払えなかったのは、万が一にも手に傷を負わせちゃ――――――なんてまだ酒に漬かってたおバカな思考が要因だった。 『ちょっとぉ、俺達ってどういう事ですか! あたしは帰る気なかったんですけどぉ?』 『夫婦になって初めての年越しでしょ? 真面目な堂元さんが珍しくお酒で甘えモードに入ってたみたいだし、イチャイチャするのを邪魔する事もないかなって』 『え?』 『堂元さんも男だし、初乗り楽しみにしてると思うよ』 『は?』 『姫はじめ、ならわかる?』 『ひ!?』 姫はじめ。 あたしがその邪魔。 なんて破壊力のある甘美な悪行。 そして、 姫はじめ! 季節的にかなりベタだけど、かえっていいかも。 『というわけで、雪ちゃん。これから飲み直そうか』 『やですよぉ。あたしは帰りますぅ』 エロッちぃ小説を書くんだから。 王子に姫はじめさせなくちゃ。 あ、漫画の方の王子にね。 『…アキの店でカウントダウンパーティやってるんだけどなぁ。雪が行けないなんて残念』 『えっ!?』 食べ物に、釣られたわけですよ。 そう…確か、アキさんのお店には行った。 それは間違いない。 そこにはアキさんの奥さんをはじめ、大学の仲間って人達がそれぞれのパートナーを連れて集まっていて、そうだ。 ずっと好きだった人がプロポーズされたかもしれないらしくて、それで暗いのよ、って、周囲から同情の眼差しを送られる室瀬さんの姿もあった。 『そんなに好きなら、奪いに行けば良かったのに』 半ば呆れながら呟いたあたしに、誰もが困ったような顔をしてたのを思い出す。 『それが出来れば、ねぇ』 『正直、彼女には悪いけど、そいつとさっさと別れてしまえって、ここにいる誰もが一度や二度は呪ってるね』 『でも、フリーになった途端、サクヤのタガは外れそうで怖いけどねぇ』 『確かに。最初の一週間で彼女、圧死しちゃうかも』 『もしくは、濃すぎる愛で窒息』 言葉は容赦なかったけれど、そこに蔑みはなく、みんな優しい笑いを浮かべてた。 あそこにいた誰もが西脇さんの存在を知っていて、そして室瀬さんの片思いを優しく見守っている構図はちょっと異様な気もしたけれど、そうなってしまうくらい室瀬さんの長年の想いが純粋だという事も解る。 それでも、手を伸ばさないんだから、全部自業自得じゃない。 なんとなくイライラして、テキーラばんばん飲んでた気がする。 同じくらい、美味しい料理もたくさん食べたから、体質的に飲み食いのバランスが良ければ二日酔いに縁のないあたしは、こうして意味不明の状況で目覚めた今も、体調まったく問題ありませんけれど、 けれど。 どうしてこうしてこうなったかが、まったく思い出せない。 まさに王道の朝チュンじゃないのよ。 はい、ここで解説。 朝チュンとは。 裸の主人公が異性と二人で朝を迎えてしまったという場面転換に用いられる技法であり、その名称。 その情景を文字にしたり絵に表すことによって、まるで二人の間に男女の行為があったかのような想像を読者に誘導する。 あたしには、絶対に起こり得ないシチュだったのに、どうしてこうなった? 「…」 王子の腕を下敷きにして寝ていたのかと一瞬だけ怯んだけれど、あたしの頭は王子の肩に乗るような体勢で抱きかかえられていて、しかも本人の寝息の健やかさからすると多分、痺れて麻痺中なんて悲惨さはなさそう。 「あの、王…」 じゃなくて、 「宮池さん、ちょっと」 体を動かすと、自動的に締め付けがきつくなる両腕を何度か軽く叩いて、 「ん…雪? なに?」 「腕、放してください」 「ん…やだ」 掠れた声の、駄々こねに似た発言と同時に、王子の両手の指があたしの目の前で緩むように開花して、そして改めてきゅっと蕾に象られる。 「く…ぅ」 何これ。 美しすぎる! ――――――じゃなくて、 そろそろ限界。 「トイレ!!」 漏れます、マジで。 便器に座り、色んな意味での解放感に浸りながら、次はどうしようかと考える。 結局、あたしは下着一枚着ていない状態だった。 ベッドから出て、床に落ちていたコートを羽織ったあたしは、今、痴女姿。 ちなみに、王子も全裸だった。 コートに手を伸ばしたあたしを見て、気にしてなくもいいのにと笑いながら王子が体を起こした時に計らずも見えちゃって、色白の裸体の真ん中にブツを視認。 バランスが良いと、それすらも美しいのだと、正直、美術館のオブジェを見てるのと変わらない感想だった。 王子と、しちゃった…? 何となく、腫れぼったいような感覚はあそこにあるけれど、中…は、どうだろう。 力を入れたり緩めたり、してみたけれど、 「わからない…」 テキーラは、二度と飲まないようにしよう。 あたしは、その決意だけを一つ固めて、かなりの時間温め続けていた便座からスクッと立ち上がった。 「――――――やっと出てきた」 何故か、コンロの前に立っていた王子は、すっかり昨日と同じ服装になっていて、 「お湯だけ沸かしていい?」 「え?」 「スープあるから。インスタント」 コンビニの袋から出されたそのわかめスープカップ二つに、あたしの喉の渇きと空腹は即座にひれ伏した。 「多分ケトルの方が早いですよ」 「あるの?」 「はい」 炊飯器の横に置いてあったケトルを差し示すと、王子が片手鍋にかけていた火を消した。 「ねぇ雪? お米――――――冷ご飯でもいいんだけど、あるかな?」 「冷蔵庫に二日前くらいの冷ご飯はあったかも」 「それ貰っていい? 実はちょっと二日酔いで、リゾット風で食べたいんだよね。冷蔵庫開けるよ?」 「…うん」 何ていうか、自然に入り込んできたなって感じ。 これまでも、会話する度に思っていた。 かみ合わない事はあるけれど、一緒にいる空気感はあまり気に障らない事。 彼の手の美しさが全てを肯定する前に、本気で王子を遠ざける理由なんて、実はあまり見当たらなかった事…。 「そういえばさ、体、気持ち悪くない?」 「え?」 唐突に話題が変わり、あたしは目を瞬かせる。 「一応、最後にタオルでちゃんと拭けたとは思うけど、――――――っていうか、コートの下、裸でしょ? 着替えなよ」 優しく目を細めた王子の笑みは、ちょっとあたしの胸を擽った。 やっぱりイケメンってそれだけで凶器だ。 じゃなくて、 話の核心に迫ってるよ、今。 雪ちゃん、ファイト。 「あの――――――宮池さん。昨夜って…その…」 「ん?」 冷蔵庫から取り出した冷ご飯の器を、レンチン準備してる王子が首を傾げる。 「あたし達って…最後まで、イタシ…ちゃってますか?」 「え?」 ピタリ、と。 王子の動きが止まる。 二人で見つめ合うこと、何秒くらいだろう。 ふ――――――と、王子の唇が笑みに綻んだ。 「まさか」 おっしゃ! ポーカーフェイスのまま、心の中でガッツポーズを決めたのも束の間、 「結構酔ってたからね。そこまで体力ないよ。アイテムも全然足りないし」 …ん? 「ヤったのはねぇ」 レンジの中でオレンジの光がくるくる回ってるのを背景に、王子はあたしのPCが置いてあるデスクまで歩を進めた。 …ちょっと待って、 「6番、9番、11…それから――――――」 王子が手に取って指差し付きで確認しているのは、裏夢リレー小説に参戦するための裏夢リスト。 ベッドでゴロゴロしながらネタ探し空想しようと思って、印刷したのをそのまま置いてたやつ。 「あ〜、ねぇ、雪。64番のクンニ10分ってさ、ほら、11番のフェラと合わさって、最終的にシックスナインになったんだよね。それってこの52番も消化した事になる?」 え? 「えっと…、もしフェラで射精出来ないままシックスナインにいったのなら、消化出来てないのは11番だと思う」 「やっぱそっちかぁ。そうだよねぇ、うん」 眉間に皺を寄せて真剣な顔で頷く王子に、ハッと我に返った。 雪! 違う! 「そうじゃなくて!」 タイミングを逃して堪るかと拳を握って言いかけたけれど、 「雪も食べる?」 「え?」 「もうお湯沸いた」 チンした冷ご飯の上に、ケトルからお湯がかかってお味噌の香りが漂ってくる。 「…食べる」 「いつもどこで食べてるの?」 王子の視線が部屋をぐるりと一周して首を傾げた。 「PCの前とか?」 「…」 「…PC避けます」 ただ見つめられただけなのに、何かに負けてしまったあたしは、釈然としないままPCをベッドの上に置く。 「テーブルあったかなぁ…、まあ、買ってもいっか」 「え?」 背後から、何やら不吉な言葉が聞こえた気がしたんですけど? 「何でもないよ」 「…」 細くなった目が、胡散臭い。 スリスリ、ズズズ。 王子と二人、並んでワカメスープのリゾットもどきを食べるの図。 「…美味しい」 「うん。旨い。ちょっと飲みすぎたからなぁ。さすがに胃にきてた」 「お、…宮池さんもテキーラ飲んでました?」 「飲んだ。なっちゃんが強敵だった」 細い息を吐きながら、わかめをお箸で掴んだ王子の手は、やっぱり綺麗。 「コンビニ、寄ったんですか?」 「ん?」 「うちに無かったですよね? このスープ」 「ああ、うん。ついでに買った」 「ついで?」 「アレ」 ベッドの枕辺りを示されて視線を向けると、何やら箱が盛り上がったシーツに埋もれていて、 「?」 思わず立って手に取ってみれば、 「…」 避妊具《ゴム》の箱。 しかも開いてる。 ふと、少し離れた場所にあるごみ箱を見れば、昨日まではなかった筈の、盛り沢山、丸まりティッシュ。 やっぱり、致してますかね。 そうですよねぇ。 「あと五個あるから、一緒に使おうね」 このタイミングで使うか、王子スマイル。 「…気が向いたら」 ツンと応えてみたけれど、あたしの心情は大荒れだった。 悔しい…。 悔し過ぎる…! ちらりと、王子の指を見た。 この美しすぎる王子の手で、あんな事やこんな事をされたのなら、 何が何でも覚えていたかった! どうして忘れちゃったのよ、あたしのバカ。 どん底まで落ち込んで、反省しつつ、ちまちまワカメを拾って食べていると、 「あ、そうだ、雪」 トーンをあげた声で王子が言った。 「明けましておめでとう」 「あ、おめでとうございます」 昨夜、アキさんのお店で年越しして、新年の挨拶を交わした時はまだそんなに泥酔状態じゃなかった。 つまり、王子も覚えているはずなのになんで改まって…? 疑問を浮かべたのは一瞬。 「これからよろしくね」 その綺麗な指先で鼻をちょん、とつつかれて、 「――――――はい」 物欲しそうに頷いてしまったあたしは、 「あ」 王子にとって、すっかり攻略済みのキャラなのかも知れない。 |