小説:食べられる花


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Episode:雪


 一月も中旬に入ると、新年ムードはすっかり消え去った。
 元々、シフトで入るコールテーカーのあたしはお正月三日目から仕事だったからあまり気にならなかったけど、平常に戻ったなと感じさせられたのは王子から。

 二週目のアタマまではあたしの部屋に連日お泊りしていた王子が、年度末に向けて仕事が本格的に忙しくなったという理由で数日おきの来訪になったからだった。

 手の動き一つで簡単に一泊、また一泊と受け入れていくあたしは、王子がこれまで相手にした女子の中で、一番簡単だったと思う。



 「――――――あ、いたいた。ゆ、…」

 その王子に、社食でそう声をかけられて、あたしはギロリと睨み上げた。

 「えーっと…藤代さん」
 「宮池さん、これからお昼ですかぁ?」
 「うん。そう。良かったらここいいかな? お昼みんなとずれちゃって」
 「もちろんですぅ」

 茶番、とも思わないでもないけれど、穏やかな日常に暗雲を広げたくないあたしが王子に厳命した約束事。

 社内で会っても下の名前で呼ばない事。
 社食でもし隣に座っても密着しない事。
 その手を餌にして操ろうと思わない事。

 『もし約束を破ったら?』
 『二度と部屋に入れませんからぁ。シャットアウトされたかったらいつでもどうぞぉ?』


 で、この現状。


 「藤代さん、今週は遅番?」
 「そうなんですぅ」
 「じゃあ次の泊まりは金曜かなぁ」
 「…話題は厳選してくださいねぇ?」

 会話の取り決めを入れなかった自分の不手際に思わず舌を打つ。

 「お行儀悪いよ、藤代さん」

 正面でクスクスと笑われて、あたしは唇を僅かに尖らせた。
 一緒にいればいるほど、王子はあたしの生活に溶け込んできている。

 王子はそれを十分に理解(わか)っていて、部屋ではあたしを物理的に構いっ放しだし、社内チャットでも結構うるさい。
 社食で見つけたら、必ず近くにきて視界に入り、あたしに手の動きを見せつける。

 操ろうとしているのか否か、見極めが微妙なところ。
 つまり、美しい手を眼福だと許してしまうあたしのその一線さえ、王子は既に把握しているらしい。

 「ねぇ、藤代さんさぁ、周りに人がいない時は別に普通に話してもいいんじゃない?」
 「ダメです。そういうのが気の緩みになってボロを出すんですぅ」
 「ボロ、ねぇ…? あーあ。残念。藤代さんとオフィスラブしたいんだけどなぁ」

 にっこりと笑った王子に、あたしもにっこりと笑い返した。

 「いいじゃないですかぁ。不倫かってくらい秘密要素あった方がきっと刺激がありますよぉ?」

 それに、成り行きで収まったこの関係をラブと呼ぶには早計というもの。
 カレーの最後に一口を頬張って、そろそろ席を立とうと考えた時だった。


 「あ」

 王子が社食の入り口へと顔を向ける。
 あたしも釣られてそこを肩越しに見て、

 「…西脇さん」

 思わず、眉を顰めてしまった。


 年が明けてから、少しずつ元気がなくなっている気がする。
 そう思っていたけれど、今日は一段と酷い状態だ。

 どうして休まなかったんだろうと少し不愉快に思うくらい。


 「彼女、顔色悪くない?」
 「…そうですね」
 「何かあったのかな?」
 「さあ?」

 あたしと西脇さんはただの同僚。
 友達じゃないんだから訊かれても困る。

 「だから咲夜さくやもおかしいのか」

 王子の言葉に、あたしはちょっとイラっときた。

 「…藤代さん、顔怖い」
 「その、西脇さんの事が室瀬さんに結び付く思考がすごく嫌なの」

 何もアクションする気がないのなら、誰にも知られないように黙っていればいいのに。
 当の室瀬咲夜さくやにもイライラするし、こうして周りが、――――――王子や大学の時の友人達が、さも室瀬咲夜さくやを悲劇のヒーローっぽく扱っている事にもイライラする。

 「ごめん、ね」

 眉尻を下げてあたしに謝る王子の顔は、美麗で困る。

 「――――――別に。それじゃあ、失礼しまぁす」
 「あ、やっぱり今日行くから」
 「…ッ」


 だから!

 そう恨みを込めて睨んだのに、王子は嬉しそうに目を細めていて、


 「…遅番なの、忘れないでよね」


 先週、冷えた玄関前で座り込んで待っていた姿を思い出して、思わずそう口にしてしまった。







 『お金はそのキャッシュカードに毎月振り込むから、栄養が偏らないように食事はしっかり摂りなさい。いいわね? 雪』

 はい。

 『進路は自分で決めるものだ。ただ、いつか結婚する相手の家族に認められる為には最低限の見栄えというものが必要な場合もある。その点は熟考できると信じているよ。それと、身を持ち崩すような愚かな人間にはならないようにしなさい。わかったね? 雪』

 はい。


 自由に使えるお金。
 自由に選べる未来。


 『いいなぁ、雪は。羨ましい』

 多少付き合いが出来て、傍から見れば気ままな生活をしているあたしが、言われるのはまずその言葉。


 価値なんて、誰にどう映るかわからない。

 あたしにとっては、自分が持っているものは空白で、他に人が持っているものこそ、切ないくらい眩しい虹色だった。


 『今月ピンチでさぁ。週末にお母さんのお手伝いしてちょっとだけお小遣いアップしてもらうんだ』
 『そうなんだぁ。優しいねぇ、お母さん』

 『もう〜、夜は九時までに帰って来いとか、もう私大学生だって』
 『心配してるんだよぉ、お父さん』


 それは、あたしが知らない世界の色。




 七百五十六円です――――――千円お預かりいたします――――――ありがとうございましたぁ。



 普通の学生にとって、お金の使い道なんて高が知れてる。



 『…ただいま』



 何時に帰っても、たとえ日付を超えたって、あたしを叱る声の出迎えなんかない。



 『…いただきます』


 PCを前に、一方的にしゃべりまくる動画を見ながらの食事は、始まりがいつか思い出せないくらい、子供の頃からの習慣だった。



 短大を卒業して就職を機に借りたこのワンルームマンションの、保証人は克彦君。

 長年一人で暮らしていた実家にはずっと帰っていないけど、両親からそれに関して連絡を貰った事はない。
 光熱費も、ただ基本料金だけが引き落としされて、もしかしたら、未だに気づいていないのかもしれないと考えている。



 見回せば、数秒で把握できるあたしだけの狭い世界は、それでも無駄に広く感じていた実家より暖かかった。
 それだけで、結構な幸せを感じていた。

 会社に行って適当に過ごして、多忙な振りをしてさっさと帰宅して、眠たくなるまでネットに耽る。


 好きに生きていく。

 あたしなりに、たどり着いたこの変化のない、ぬるま湯の世界《ルーチン》は好きだった。



 「ねぇ、雪? 今月の最後の日曜、亜希のトコにご飯いかない?」



 そこに、すんなり入ってきたのは、王子こと、宮池たくみで、



 「…行く」



 数日も空ける事なく、何かしらの手土産片手にこの部屋にやってきては、DVDを見たり、一緒にネットゲームをしたり、時々、キスをして、一緒に寝て――――――。




 それを繰り返しているうちに、気が付けば、あっという間にバレンタインの季節。






 『スノウ、やっぱり彼氏できたんでしょ? ( *´艸`)』

 いつものグループチャットじゃなく、個人宛てに入ってきたそのメッセージに、思わず口ごもる。
 ちょっと躊躇ってから、キーを叩いた。

 『似たような存在が出来たのは間違いないよぉ(´▽`)』
 『え〜? それってちゃんと付き合ってないって事?』
 『そうだねぇ。そういう感じじゃないかなぁ』
 『(;一_一) それってセフレ? スノウ、変なのに引っかかってないよね?』
 『セフレっていうか、ソイカレ?』
 『Σ( ̄□ ̄|||)え、エッチなし? そうなの!?』


 ――――――そうなのです。


 添い寝彼氏。

 敢えて存在に名をつけるなら、現状からすると王子はコレ。
 だって、あたしと王子は結局、セックスらしい行為には、あれから一度だって至っていないのだから。




 『駄目だよ、雪。ごはんは適当にしない事。それから一人じゃなくて、俺と食べる事』

 …うん。

 『駄目だよ、雪。遅く帰るときは俺を呼ばないと。外灯が少ないとこがあるでしょ?』

 …うん。

 『おいで、雪。一緒の方があったかいよ』

 …うん。


 雪、

 雪、

 ――――――雪。



 あたしを呼ぶ声が、耳に残る。

 なのに、性的な意味で求められないのは、どうしてなんだろうとモヤモヤが募る。



 女子にも性欲はあるんだと、漫画や小説で読んでも、そんなヒロインにふうんって感じだったその渇きが、欲望に浸《ひた》されて膨張していた。

 王子とセックス、してみたい。


 心のどこかが、ぐちゃぐちゃに濡れている――――――。





 コールが比較的少なくなる二月のイベントであるバレンタインは、わがカスタマー部においては暇つぶしに近い。

 「なんじゃこりゃ」

 薄紫色のシャツを着た皆藤さんが、出社するなり自分のデスクを見て足を止めた。
 スーパーバイザー三人は既に朝のミーティングに出向いていて、座っているのは西脇さんと、皆藤さんの反応を見ようと少し離れた場所から鈴生り風に様子を伺っている女子社員達。
 まだサービス開始前だから、その数はかなりのもので、――――――ちなみに、あたしもその山の中の一人として見学中。

 「どうやって食えってんだ…」

 皆藤さんの嘆きにも似た言葉に、きっとその表情がしっかりと見えていた筈の西脇さんが、思わずと言った風に笑いを噴き出して俯いて、あたし達も、それに釣られてクスクスと肩を揺らした。

 みんなから一口百円を集めて材《・》料《・》を買い込み、デスクの上を綺麗さっぱり片付けて(段ボールへ雪崩落とし技で)大きな模造紙を一枚敷いて、その上に両面テープでクッキングペーパーを貼り付けて、とんとんかんかん、じゃなく、ペタペタぬりぬりでこしらえました。

 お菓子の家。

 セットで売られているお菓子の家を参考に作ってみたけど、結構良い出来だった。
 給湯室で接着用のチョコを溶かすのは大変だったけど。

 「コーヒー淹れますね。まずは朝ご飯代わりにお庭のテーブルとかいかがですか?」

 立ち上がった西脇さんが、眼鏡の向こうで目を細めた。
 年始から少し元気がないように見えて、それからしばらくしたら、酷く顔色を悪くした日が一日だけあったけれど、それ以降はいつもと同じに見えて――――――。

 女子の間では彼氏と喧嘩でもしたんじゃないかって噂されてた。

 「庭のテーブル…?」
 「その手前右辺りです。石チョコの道の横にある」
 「これか。――――――お、マーブルケーキか?」

 皆藤さんの目がぱっと見開かれた。
 どうやら、マーブルケーキが好きだというこっちの噂は本当だったらしい。

 「皆藤さぁん、ホワイトデぇー、期待してますねぇ〜」

 あたしが両手をスピーカーにしてわざと囁くように声を届ければ、周りもそれに乗っかって色々様々リクエストを口ずさむ。

 「おい藤代ぉ」
 「へへぇ、すみませぇん」

 悪戯っぽい笑いを返して、そろそろ席に戻ろうと踵を返しかけた時、ふと、前髪に隠れた西脇さんの表情に気が付いた。


 「…」


 バレンタインに、少しもウキウキしていない。

 そして、クリスマス前はプロポーズされるかもと期待を灯していたその指には、一度だって指輪が光るのを見ていない。


 ――――――もしかして、



 別れた…とか?



 チラリと、室瀬咲夜さくやの顔が浮かず。


 …いやいやいや。


 「雪ちゃんには全く関係ありません」



 さ、今日も一日頑張ろう。

 うん。





 "雪、今日のご飯だけど、裏の駐車場で待ち合わせしよう。終わったら来て"

 十五時を過ぎたころ、社内チャットで入ってきた王子からのメッセージに、思わず首を傾げてしまう。
 裏の駐車場は、役員とお客様用の駐車場。

 ちょっと考えて、キーを叩いた。

 "今日、車?"
 "そ。少し遠出しようかなと思って"

 遠出なんだ…。

 "わかった"

 一応、王子の分のチョコは用意してある。
 どうやらカップルイベントは結構好きらしい王子は、バレンタインの今日、絶対に外食しようと少し前から主張していた。

 予約とか、したんだろうな。
 そういうの、手間かけそうな人だし。

 でも貰う方の男子が自ら予約するって世間的にはありなの?
 女子主導ってイメージが強かったから、あまりピンとこない。


 「藤代さん、今いいですか?」

 ぼんやりと考えていたところに、遠慮がちに声をかけてきたのは西脇さんだった。

 「はい、大丈夫ですよぉ」
 「すみません、先月のシフト手当、数が合わなくて、人事から差戻されているんです」
 「えッ!」

 あたしは慌ててパソコンを操作してシフト表を開き、西脇さんに提示された紙の赤丸が入った部分と照らし合わせた。

 「あ、思い出しましたぁ。この日ですねぇ。帰り間際に障害があって、結局ラストまで対応したんですけど、越智さんがシフト勤務にして、早出分は残業にして良いっておっしゃったんでぇ」
 「なら手当はこの数で合ってるんですね。Webの方も差戻されてると思うので、入力しなおしをお願いしてもいいですか?」
 「了解ですぅ」
 「十六時までに再申請をお願いします」
 「はぁい、わかりましたぁ」

 西脇さんは、このカスタマーサポート部の幹部候補生。
 コール対応も出来るし、新人の研修も、業務の現場展開から精査、備品の管理、そして人事処理にもしっかりと精通している。
 スーパーバイザー三人の信頼をはじめ、皆藤さんだって二言目には西脇さん西脇さん。
 長年勤めている人は彼女の重要性に気づいているけれど、本人は意外と、ただ目の前にある仕事をこなしてるだけかも知れない。
 今度の四月の発令で役職がつくかもって去年の秋ごろに噂になって、克彦君に聞いたら"仕事に信用がある人なら昇進は出来る部署だよ"とあたしにも精進するように奨めてきて、つまり表面上はごまかされた。

 決まりだな、と想定したけれど、特にあたしに影響があるものでもない。
 あたしにとっての仕事は、生活の糧という域を超えるものではなくて、西脇さんのように"認められる"という功績自体、それほど羨ましいものじゃない。

 ――――――あ、また溜息。

 西脇さん、人目を忍んで消沈するのがますます上手くなってきたなぁ。
 周りには十分気を遣っていると思うけど、勘がいい人はそろそろ何かあった事に気づいてるんじゃないかと思う。
 眼鏡の向こうの眼差しは弱っちいし、うつむき加減に拍車がかかった。

 明らかに、痩せたしね…。

 …おっぱい減らないのは不思議だけど。


 「おっと、仕事仕事」

 目の前の電話機が着信を知らせるランプを点灯させたのを瞬時に見つけて、あたしは、現在五つ星中4.9評価のサービスを余裕綽々で開始した。








著作権について、下部に明記しておりマス。



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