小説:食べられる花


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Episode:雪


 レストランは、窓際のみの席を配置してレイアウトされたこぢんまりとした作りで、入り口にただいま満席という札が下がっていた割には、騒がしくはなく、足元が危ういくらいに薄暗い店内は、テーブル上のキャンドルの明かりで、向き合うお互いだけが視界に入るような、どうやら今夜は、バレンタインでそのコンセプトらしい。

 「今日は完全予約制だったはずだよ」
 「ふうん」

 お料理はやっぱり美味しくて。
 王子が選んだノンアルコールのサングリアも美味しくて。

 「――――――あ」

 食後のホットコーヒーで漸く食への興奮が治まった頃に、本日の醍醐味を漸く思い出す。


 「はい」

 バッグと一緒に背中の後ろに隠し持っていた小さな紙袋を王子へと渡す。

 「チョコ?」

 橙の明かりの中で目を細めた王子は、そう言って受け取った。

 「残念、雪の手作りじゃないんだ」

 市販のものだった事への不満を見せる発言に、ちょっとムッとしてしまう。

 「あたし、お菓子作りはしないし」
 「でも、堂元さんには作った事、あるんだよね?」

 なんで知ってるのよ。

 「…あれは、梢ちゃんが作るっていうから、便乗した結果、たくさん作ったから、克彦君にもあげただけ」
 「って事は、他の男も食べたんだ? 当時の彼氏とか?」
 「…まあ」

 彼氏っていうか、合コンで知り合って、あんまりしつこくチョコチョコ言ってくるから、おやつ用にカバンに入れてたやつを本当に仕方なく分け与えただけだけど。

 「――――――俺も、来年は手作りで欲しいな」

 唇の前で、両手を組みながらそんな事を言うとは、この確信犯め。

 「…」

 キャンドルに影を揺らされて、芸術品のようにそこにある手は、あたしの視線を釘付けにする。
 そしてその向こうにある王子の眼差しも、最近は、あたしの体の一部を、きゅっと締め付けるような攻撃力が備わってきた。


 来年…も、こうして一緒に過ごすつもり――――――って事?


 答えも出さず、疑問も出せず、あたしが無言を貫いていると、



 「これは、俺から」
 「…え?」


 王子が背中から出してきたのは、細長い箱。
 細長いって言っても、ドラマとか漫画とかで見るような、ネックレースやペンダントが入っているような小ささじゃなくて、ゆうに三十センチは超えている大きめの長い箱だ。


 「――――――バラ?」


 王子の指が添えられて、あたしの方に向けられた箱のフィルム側から覗けたその中には、一輪の、多分だけど白い薔薇の花が入っていた。


 「…え、なんで?」

 思わずそう呟いていたあたしに、王子が首を傾げる。

 「何が?」
 「いやいや、お返しが早すぎでしょ、宮池さん」
 「え、お返しじゃないよ、それ、バレンタイン」
 「…はい?」

 意味不明で目を瞬かせたあたしに、「ああ、そっか」と王子が何かに気づいたように笑った。

 「俺ね、小学校までアメリカで育ってて」
 「…」
 「向こうだと、バレンタインは大切な人に贈り物をする日だから」
 「…え?」
 「だからこれは、俺から雪に。ハッピーバレンタイン」


 "大切な人"に贈り物――――――…。


 「あり…がと」

 ずっと差し出されたままだった箱を、漸くあたしは受け取った。
 まだ固そうな蕾の状態の白いバラは、オレンジの光だけが頼りの中でも、純白とわかるほどにとても綺麗で、


 「これ、食べられるの?」

 前に貰った事のあるエディブルフラワーを思い出して、そんな質問が口をついた。

 「ふふ、まさか」

 優しく笑って否定した王子は、キャンドルの光を灯した眼差しであたしを見つめる。

 「残念だけど、それは食べられないよ」
 「です…よね」

 そんな風に真面目に答えられたら、思い付き程度で訊いたあたしがなんだか恥ずかしい。


 「でも、食べられる花なら、他にあるかな」
 「――――――え?」

 王子の手が、すっと伸びてきてあたしの指先を掴む。


 「それね、"マイスノー"っていう薔薇」


 マイ、スノー…、



 「――――――俺の雪」



 予想した一瞬後には、その言葉《こたえ》は王子の口から紡がれてしまい、

 「…」

 あたしは、これ以上王子を見つめ続ける事が出来なくて、繋がった指先へと視線を逃がす。
 その二人が一つになった指の絡みは、まるで心臓のように鼓動を共有して響かせていた。


 「雪なら、俺は食べられる」

 王子があたしに何を伝えたいのか、すべて解ってしまって、あたしは恐る恐る目線を王子へと戻した。
 その間にも、触れられた指先には刺激が与えられ、痺れのような官能がさわさわと走り抜ける。


 「雪。――――――今日は、一月一日の、続きをしようか?」


 乱れそうになる息を必死に抑えながら、あたしは、ただ小さく頷く事しか出来なかった。



 このフルコースは、やっぱりもともと王子が決めていたプランのようで、恭しくやってきた貫禄のあるスーツ姿の男の人が、カードキーを持ってやってきた。
 会計もせずにレストランを出ようとするから驚いていたら、どうやら前もって部屋につけるよう話を通していたらしい。

 「…バレンタインなのに…」

 こんなに男子が尽くす形でいいものなのか。

 いやいや、相手がしたいって言うのなら別に意地でも止めたいって程にこだわりがあるわけじゃないんだけど…。

 それでも、思っていたのとなんか違う――――――的な違和感を、部屋に上がる為に乗り込んだエレベーターの中でひしひしと考えていたら、

 「いいの。形に残らないものは男が出す方が箔が付いてカッコいいから」

 どうやら口に出てしまっていたらしいあたしの引っかかりに、王子がさらりと答えてくれる。



 …考え方もイケメンか…。


 改めて、宮池たくみという人物像を復習すると、完全無欠な男子には間違いない。

 高校生の時なんかを想像したら、漫画のヒーローのイメージ通り。

 でも、この王子だって裸になって、あんな卑猥な行為をするんだな…。
 一月一日に一度だけ目にした王子の綺麗なあそこを思い出す。

 アレを使ってこれまでも――――――、


 思わず、想像してしまった、王子の絡みのシーン。

 うわ、やばい。


 なんて言うか――――――、


 …あれ?



 いつものように、空想に走ろうとしたのに、どうしてだろう。
 なんか、今までとはちょっと違う、胸がぎゅっと絞られる痛みを感じる。



 「雪」


 背中から、あたしを包むように抱きしめてきていた王子が、耳元で名前を呼んだ。


 「何考えてたの? 雪」


 その声のトーンに、ドキドキと、あたしの鼓動が早くなる。
 腕に抱えている薔薇の箱が、なんだか頼りないくらいに、自分の力加減に自信がない。


 「どんな、セックス、するのかな…って」

 他に誰も乗っていないのを良い事に、あたしは強がってそう言った。

 「もうすぐわかるよ」

 楽しそうに王子が笑っていたのは、あたしの声が、少し震えていたからかも知れない。





 お部屋は広々とした作りで、薔薇を基調にした淡い花柄をコンセプトにまとめられた可愛い雰囲気で、逃げるように先にシャワーを浴びたあたしは、今は王子の登場待ち。

 壁のフックに掛かった二着のコート。
 ソファに置かれた二人の荷物。
 畳まれたあたしの服、背もたれに下がった王子の服。
 テーブルの上には王子の腕時計、マイスノー《薔薇》が入った箱。

 ベッドには、素肌に手触りの良い黒のガウンだけを着たあたし。


 初めて王子があたしの部屋にお泊りをしたお正月から、これは見慣れた光景だった。
 ただ場所が変わっただけ。


 いつもの場所と、違うだけ。


 なのに――――――、


 「雪」

 ホテルの刺繍が胸元に入った、黒いガウンを着てきたのは、首筋の白い肌を少し赤く染めた王子で、


 「おぅ、」

 言いかけて、ハッとする。


 やばい。

 あたし、もしかしなくても、

 シテる最中にも"王子"って呼んじゃいそうだ。




 「別に構わないよ、王子で」

 ベッドに座るあたしの視界を横切ってバーコーナーへと向かい、ペットボトルを二本運んできた王子は、うち一本をあたしに差し出しながらそう言った。

 「…ぇと…」

 気まずく思いながらも、乾いた喉を潤す為に受け取ったボトルのキャップを開けて、唇を濡らしながらお水を含む。

 「最初はびっくりしたけど、俺の指であんあん言いながら何度も王子王子って呼ばれたらなんかその気になっちゃって」
 「ぶ、こほっ、けほ」

 赤裸々すぎでしょ、王子…。
 しかもあたし、既に"やらかした"後なわけですね。

 「もちろん俺も、呼ばれた数だけ雪の事、"姫"って返すから、問題ない」
 「え…」

 うっすら笑ったその言葉に、内心「げ」って思う。

 王子は、あたしが"姫"と呼ばれるのを嫌がるだろうって分かってて言ってる。
 それはつまり、自分を王子とは呼ぶなって事だ。

 「雪さぁ、どうして二人の時はたくみって呼ばないの? 水瀬さん達と食堂で話すときはそう呼んでたのに」
 「ぇっとぉ」

 なるほど、そっちの願望がメインでしたか。

 ちなみに、水瀬さんとは企画部のお姉様。
 自分がいる限り、王子の隣を決して誰にも譲らないと豪語して憚らない、王子大好き肉食系女子。

 「今年になって雪との距離が近くなって嬉しかったけど、そのことは、少し寂しかったかなぁ」
 「…」

 なんて言うか、微妙にリアクションに、困る。

 王子を"たくみさん"って呼ぶ事自体がお姉様方と平和に過ごす為の共感の方法で――――――でも確かにここ最近は、距離感を意識して"宮池さん"と呼んでいた気がする。

 「まあでも、今日はたくみって呼んでくれるかな?」
 「あ」

 不意を突かれるようにペットボトルを取り上げられて、思わず顔を上げると、視線が王子の薄茶の瞳とぶつかった。
 あたしを見つめながらも、危うげなくボトルをテーブルに置いた王子は、その手をあたしへと伸ばしてくる。

 「ふふ、雪は、ほんとに俺の手が好きだよね」

 指先で、顎を持ち上げられた。

 「ねぇ――――――」

 もう片方の手が、そっと頬に触れてきて、そして、あたしの唇の形を親指がなぞる。

 「俺の顔は?」
 「…ぇ?」

 水を飲んだばかりだったのに、声が掠れてうまく出ない。
 はらはらと降ってくる王子の色気に、指先の魔法に、頭がぼうっとしてるみたいだ。

 「俺の顔は、好き?」
 「…き」
 「俺の声は?」
 「…」
 「雪?」

 ああ、この人は、

 「…好き」

 顎に添えられていた指が、首筋から鎖骨へと下りていく。
 唇に強く触れていた指が、こめかみから横髪に差し込まれて、それから後頭部に添えられる。
 王子の顔がゆっくりと近づいてきて、額にキス――――――そして唇にもキス。

 「…これは、好き?」
 「…好き」
 「じゃあこれは? …好き?」

 ガウンの上から胸の先を撫でられる。
 素材が敏感な肌を刺激して、甘い感覚が首の後ろまでキュンときた。

 「ん…好き」

 ベッドにそのまま倒される。
 頭を支えられた状態で、まるでスローモーションのような扱われ方に、非力じゃない王子に感心した。


 「俺の事は?」

 なんて、長い誘導だろう。

 「…バカ」

 口から出た呆れ交じりのあたしの悪態を戒めるように、王子が一瞬だけ唇を合わせる。

 「俺の事は? 雪」

 十センチもない至近距離で、目の前全部、王子の顔で、
 これに抗う事が出来る乙女は、本当に本物の鋼のツンさんだと思う。


 「――――――好き」


 紡いだ途端に、無性に恥ずかしさがこみ上げてきて、


 「俺も、好き」


 同時に、きゅうと泣きたくなる。


 「おう、じ」
 「姫」


 む。


 文字通り、視線をぶつけあって数秒。



 「…たく、み」

 「――――――雪」


 王子があんまり嬉しそうに笑うから、あたしも釣られて笑ってしまった。








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