ん? どこからともなく聞こえてきた潜めるような声に、あたしは思わず足を止めていた。 この声――――――夏芽さん? 「うん…そうだね。ほんとに、うん。良かったって思う」 応えたこの声は七緒さんだ。 辺りを見回してみる。 トイレ以外はどこにも入り口らしいところは見つからなくて、 「…上…?」 天井の一部が透かし模様になっていて、そこから声が響いているらしい。 どこかの部屋と繋がってるのかな? ちょっと名前を呼んで話題を変えてもらお――――――、 「ユキが死んでもう何年だっけ? 五年…六年?」 「五年…かな」 …え? 声にならなかった声で呟いて、それを切っ掛けに何かを考えたいのに、どうしてだろう。 何も動かない。 思考も、感情も、 ――――――あたしを囲む時間さえ、全部止まっているような気がした。 「ユキさ、ほら、 「うん」 「カウントダウンの時、ヘロヘロに酔っぱらった雪ちゃんさ、 「なっちゃん、それは雪ちゃんに失礼だよ」 「あ〜、やっぱりそうだよね〜」 … 「でも、――――――なっちゃんの言いたいこと、わかるな」 「でしょ?」 「…あんな風に心から幸せそうに笑う 気が付けば歩き出していたあたしの耳に、七緒さんの声は遠くなった。 凄いね、あんなにあった尿意も吹っ飛んだよ。 精神的に侵略されると、こんなにインパクトあるものなんだね。 「あ、よかったら、デザートも外に出しましたので」 「ありがとうございますぅ」 廊下ですれ違ったスタッフさんに笑顔で返して、フロアに戻る。 さっきまで王子と一緒にご飯を食べていた席に戻り、一呼吸、そして改めて外のテラスへと顔を上げてぼんやりと見つめた。 しばらくすると、七緒さんと夏芽さんが二人で大きな段ボールを手に姿を現し、 …どうやら子供達にプレゼントイベントを始めるらしい。 説明が進むごとに甲高い歓声が幾つも聞こえてくる。 二人とも、さっきはスタッフ用のバックヤードにいたのかな。 何ていうか、タイミング、神がかってるよね、色んな意味で。 「知らなかったなぁ」 薄茶の髪、同色の柔らかい瞳。 甘い微笑みで色んな女子の心を撫でて攫う、我が社が誇る王子様は、 "悲劇の王子様"だったんだ。 恋愛漫画とかによくあるパターン。 愛する人を失って、凍ってしまった王子様の心を溶かすのは、よく似たヒロインの女の子。 ごくたまに、同じ名前の女の子。 あるよね、うん。 "大丈夫。これからはずっと、あたしが ヒロインというポジションで、心優しくあろうとする漫画の主人公なら、きっとそう言って支えていけたのかもしれないけれど、 「…でもねぇ」 あたしは、ドアに向かって歩き出した。 ううん。 もしかしなくても、人生の分岐点から自分で決めた選択肢を歩き始めた。 外に出て、ギュっと絞られたのは、心じゃなくて体。 「さっむッ」 思わず自分の腕を抱きしめて暖を求める。 「雪」 王子が、優しく目を細めた笑顔で、あたしに向かってやってきた。 またビールを飲みだしたからか、それとも寒さのせいなのか、さっきよりも頬が赤くなっている。 「雪、…何かあった?」 「あ、――――――うん。そう」 ほんの僅か、片眉が動いた王子の洞察力に、ちぐはぐな張り方になっていたあたしの中の気がふっと緩んだ。 「さっき急に生理になっちゃって」 「え?」 「たまにあるんだよね。色々あって、体がびっくりしちゃったのかも」 「あ〜、うん、そっか」 ちょっと困ったような照れたような、眉尻が下がる表情になったのは、バレンタインから続くセックス三昧の自覚があったからだと思う。 「もしかして帰る? なら俺も一緒に――――――」 「大丈夫。まだ始まったばかりでしょ? 今 「でも」 言葉と一緒に、王子の手が、あたしの背中に廻された。 「雪が俺の婚約者になったって、みんなに自慢しようかなって思ってたのに…」 額に額が、甘えるようにくっついてくる。 小さく囁かれる声の掠れ具合が、悔しいけど好きだなってやっぱり思った。 手の好みが六割を占めていた恋愛要素、残り四割も、ちゃんと機能しておりましたとも。 「…そういうのは、指輪貰ってからの方がいいなぁ」 悪戯っぽく笑って見せたあたしの言葉に、王子の目が細くなる。 「うん。そうしよう。いつ行く? 来週末?」 「シフト確認してからね」 「そっか…」 「あ、直ぐそこでタクシー、拾うから」 「んん…」 「家で少し落ち着いて、もし戻れそうならラインするし」 あたしのその言葉に、漸く王子は嬉しそうに頷いた。 「わかった。でも体調とか悪くなったら直ぐ連絡して? あと、家に着いても合図して?」 「うん。ちょうどちっちゃい子達も盛り上がってるところだし、七緒さん達にもこのまま黙って行こうかな。 「ん、伝えとく」 「じゃあね」 王子へと手を振りながら巡らせた視線が、タイミング悪く、金髪女子に腕を掴まれている室瀬 ふん。 良いご身分。 西脇さんに長年片思いしてるとか、純愛ぶって言いながら、結局、やることはやってそうだよね。 心は西脇さんに捧げてるけど、体の欲求は別とかなんとか言っちゃって? 平気でそういう事、口にしそう。 室瀬咲夜《あいつ》といい、王子といい、恋愛観、ちょっとうざくないですか? 独り善がりで気持ち悪い。 そしてそれを知ってるんだろうこの仲間達も、はっきり言って最低最悪。 あたしの事、年末のパーティからずっとそうやって見てたんだ。 死んでしまったユキに癖が似てるね、同じ名前なんだ、良かったね、代わりが出来て、ね、 ふざけないで。 あたしは嫌。 絶対に、そんな都合よく利用されたりなんかしない。 あたしは、絶対に、 王子を慰めるような役はしないし、 自分を犠牲にして王子を癒すセリフなんて、言ってなんかあげない。 絶対に、言ってやらない! 「気を付けてね、雪」 この内側のドロドロを知らない王子からのそんな言葉に、 「うん。バイバイ、 振り返ってにっこりと笑って対応したのが、あたしが正面からまともに宮池 ―――――― ―――― 亜希さんのレストランを出て、いったいどれくらいの時間が経ったんだろう。 ふと気づいてスマホをみたら、梢ちゃんにラインしてから一時間以上も経っていて、 「…なんか小指痛いな」 濡れたショートブーツが、苦しいくらい狭く感じる。 これだけの時間歩いたのなんて、多分小学校の遠足以来だ。 辿り着いたマンションに入り、押し慣れていた筈のインターホンを押した。 感触が、いつもと違う。 …やばい。 指先がピリピリいってる。 ぼんやりとその手を見ていると、「はあい」という梢ちゃんの声が聞こえてきた。 「雪ちゃん、いらっしゃい、雪が降りだしたってニュースで言ってたけど大丈夫だっ…ゆ、雪ちゃんッ!?」 まるで悲鳴のようにあたしを呼んだ雪ちゃん。 「なんでッ!? 傘持ってなかったの? 頭、雪が、それに、手、割れそうなくらい冷たいよ、どうして――――――かっちゃん! かっちゃんッ!」 梢ちゃんの温かい手が、あたしの露出していたあちこちに触れてくる。 温めてくれる。 「どうしたの、こず…――――――雪?」 まさに寛いでましたって感じのトレーナーとスウェット姿でやってきた克彦君も、あたしを見て目を見開いた。 「あ〜、えっと、梢ちゃん、克彦君、ごめんね、あたし――――――」 どうしよう、 何て言うか、 どうしてここに来たのかも、もうよく分からなくて、 「とにかく雪、中に入って」 「そうだよ、あ、お風呂! かっちゃん、あたしお風呂にお湯出してくる!」 「ああ、頼む」 見慣れていた筈の二人のやり取り。 その二人の指に光るお揃いの指輪を見て、あたしの中の何かが大きなシャベルで根こそぎ揺さぶられた。 「雪、靴脱いで」 「…」 動かないあたしの髪の毛や肩を、克彦君の手が優しく払ってくれる。 玄関のタイルに、雪の結晶が落ちては消える。 「…失恋して新婚夫婦の家に押し掛けるとか、あり得ないよねぇ」 「――――――宮池と何かあったの?」 「ううん。特には」 特には、何もない。 「あ、ううん。あったや。そういえば。プロポーズされたの。今度指輪見に行くんだって」 凄い事だった。 ビッグニュースだよ。 「雪…」 「ユキと一緒にいる時間が好きだって。これからもユキとずっと一緒にいたいって」 「…ゆ、」 ああ、やだな。 お部屋の中が、あったかいから、なんだか、色々溶けてきちゃうんだよ。 ほら、あたしの目も、もう心の中と同じくらい、ドロドロになってきた。 外にいる間は、何もかもが凍って、全然平気だったのに、 「でもね、克彦君…――――――王子のユキは、あたしじゃないの」 好きだよ、ユキ。 可愛いね、ユキ。 王子の唇で紡がれてきた"ユキ"は、あたしじゃない"ユキ"の事。 「嘘つき…」 「雪…」 「克彦君の嘘つき…」 ずっと昔に、克彦君が言ってくれた事。 "雪、きっといるよ。雪だけを掴んでくれる、雪だけの手を持つ人が" 「誰も…あたしを一番になんかしてくれない…」 実の親にとっても、 親友だと信じた人にとっても、 あたしはいつだって、心なんか関係ない、ただの都合のいい存在で、 期待して、泣いて、それに疲れたから、もう絶対に信じないって思ってたのに、 『雪、雪、雪――――――』 王子が、 あまりにも優しくあたしを呼んで、 撫でて、 掴むから…、 心ごと、鷲掴むから…、 だから、バカな期待をしてしまった。 「ひひぃぃぃいいん」 気が付けば、仁王立ちのまま号泣状態のあたし。 目の前の克彦君も、茫然とあたしを見下ろしている。 「ううううぅぅ」 涙が、溢れて止まらない。 想いが、溢れて止まらない。 「ぃやだぁ」 大好きだったのに。 大好きになっちゃったのに、 「やだぁぁぁぁッもうやだあああぁぁあ」 「雪…」 役目を思い出したかのような克彦君の優しい手が、すっかりと濡れてしまったあたしの頭を撫でてくる。 でももう、その親愛の手だけであたしが満たされる事はない。 たとえ梢ちゃんがここに加わったとしても、比べられないと理屈では分かっていても、もう駄目なんだ。 だって、大好きな人の手の感触を知ってしまったから。 放したくないと願う、温かい腕を知ってしまったから。 「ひいいいぃぃいいんん」 大切なものなんか、見つけたくなかった。 大切な人になんか、出会いたくなかった。 だってあたしが大切にしたいと思うものはいつだって、掌に乗せた途端、まるで雪のように溶けていくから――――――。 |