小説:食べられる花


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Episode:雪


 〈スノウ、もう帰るの?〉
 〈うん、帰るね〉
 〈もうちょっとニアミスして遊びたかったよ〜〉
 〈ごめんね。お目当ての漫画買ったから、早くゆっくり読みたいんだよねぇ〉

 オフ会はしないチャット仲間とは、販売会とかのイベント会場で写真をアップし合ってニアミスごっこ。
 会えそうで会えない、そんな感じを楽しんでいる。
 どこを見てもスマホ触ってる人ばかりだし、似たような趣味を持ってる人達の集まりだから、覚えのある容姿の人も多いし、アタリをつけても断定は出来ないから、結構長く続いている遊びだ。

 〈じゃあまた次のイベントでね〉
 〈うん。じゃあねぇ〜〉

 スマホをロックしてスラがけしたバッグの中へ。
 手提げはちょっと重くなったけど、これも楽しみの一つだと思えば辛くない。

 会場を抜けて駅に向かう途中で、ふと気が付いた。

 ――――――ここ、王子と来た街だ。


 周りを見渡すと、信号の先の道向かいに、お揃いのブレスレットを購入した"Stella"が見えて、もう何も光っていない手首に思わず触れる。


 「…早く帰ろ」

 振り切るように駅へと歩き出したあたしを、


 「雪ちゃん?」

 聞き覚えのある声が呼び止めた。
 見ると、人違いじゃなかった事にホッとした表情になっているショートカットの女の人がいて、

 「元子さん…」

 こんな気分になった時に、王子側の人間に会っちゃうとか、最悪だ。


 「こんにちは」

 それでも、何もないような顔で一礼すると、元子さんは前と変わらない笑顔で軽く会釈を返してくれた。

 「こんにちは。あれ? たくみは一緒じゃないの?」
 「え?」

 屈託なく訊かれて、返答に困ってしまう。
 室瀬さんが来るくらいだから、仲間内ではもう知れ渡ってると思ってた。

 「あの…」

 どう言うべきかと、右手に持っていたバッグを左手に持ち替えたところで、

 「え、嘘」

 元子さんの声が低く唸ったかと思うと、


 「あはは、まさか、もう振られちゃったの? ほんとに? くふふはははは」

 次第に高笑いに変化していた元子さんの態度に、抑えていた感情の一部が、瞬間で沸騰してしまった。


 「あたしが振られたんじゃないですから!」

 思ったよりも大きな声が出てしまって、周囲の音がどこかに吸い込まれたかのように静かになった。

 「え?」

 それは、元子さんがきょとんと首を傾げてそう反応した間の、短い静寂だったけれど。

 「当り前じゃない。雪ちゃんの事、私が笑う筈ないでしょ? 振られたのはたくみで当然。あんな変態、そうそう付き合ってられないでしょ」
 「えッ?」

 茫然としたあたしに、元子さんが赤い唇をにっこりと象らせて、それから告げる。

 「でも、変ね」
 「…何がですか?」

 早とちりした事への恥ずかしさで一杯になっていたあたしは、隙いっぱいに聞き返してしまって、


 「――――――振った方の雪ちゃんが未練たっぷりの顔してるのは、私の気のせい?」
 「!」


 立て直せずに、晒してしまった。

 凄く嫌なのに、立て直せない。
 表情が、作れない。


 「あらやだ。もしかして図星ついちゃった?」

 厭味にも、聞こえなくもないその言葉。
 でも、元子さんの表情が、それを一切拒否していて、


 「…まあ、それなりに、好きでしたので、そういう気持ちがある事は否定しませんけど」


 彼女は姉御肌なんだと、七緒さんや夏芽さんが言っていた意味が何となく解る。
 無条件に信頼して気を許したくなる、そんな独特の雰囲気がある人だ。


 「だったら付き合い続けてあげれば良かったのに。私からしたらうざった過ぎてアウトな男だけど、それが嫌じゃないなら、見た目は良いし、小金持ちだし? 結構便利な男じゃない」
 「便利って…」

 何て言うか、王子の扱いのこの雑さが、あたしの肩の力を抜かせたのかも知れない。


 「あたしは、一番になりたいんです」

 本音が零れて、でも取り消す気はなかった。
 この人だって知っている。

 王子には、ユキという忘れられない存在がある事を。

 それなのに、同じ名前で呼び続けられるあたしの立場では考えてくれない。
 あんまりだと思いますよ、はい。


 「ユキには先着がいるみたいだから、嫌になっただけです」
 「え」

 元子さんが、短く呟いた後、何度か激しく瞬きをした。



 そして、


 「一番、――――――ねぇ? 雪ちゃんにとって、自分が一番って、そんなに重要なんだ?」




 「じゅ…、重要って言うか…」


 "雪"

 思考を巡らせると、うっかり思い出してしまう王子の声に、あたしは強く首を振った。

 「名前を呼ばれるのが、嫌だと思っただけ、です」
 「んー、なるほどねぇ」

 苦笑を交えての困惑顔を見せた元子さんが、「まあ、そうねぇ」と両肩を小さく上げた。

 「見てるこっちが胸焼けするくらいに大切にしてたのに、それが本人に伝わっていないのは、あの変た…じゃなくて、たくみが下手なのか、それともあなたが頑固なのかってとこだけど」
 「頑固って、あたしは別に――――――」
 「でも素直に、彼に愛されてるなって信じる事は、もう出来ないんでしょう? 名前のせいで」
 「それは…」

 あたしは、一度言葉を切って、考えをまとめてから口を開いた。

 「…思い出って、綺麗に残るし、手に入らないって分かってるものこそ、それを求める思いは強くなるって、知ってるから」

 どれだけ放置されても、自分が消し忘れた電気に胸をときめかせてエレベーターに乗り急いだ幼かったあたしのように…。

 思い出は、他人には干渉出来ない。
 抱えた思いも、支配する事は出来ない。

 克彦君だって、梢ちゃんだって、あたしをずっと大切に扱ってくれるけど、あたしの中にある両親との僅かな思い出に、完全にとってかわる事は出来なかった。

 「勝てない人がいるって、知ってしまったら、もういいやって言うか…」

 何をされても、何を言われても、それが誰に向けられたものなのか、いちいち反応しそうな自分が想像できて、

 「知っちゃったって、それってユキの事?」
 「そうですよ!」

 わざとかと思うくらいに呑気な態度で尋ねてきた元子さんに、ムキになって応えたあたしの声は思っていたよりも大きくて、湧いた恥ずかしさに唇を噛む。

 ああ、もう、雪のバカ。

 あたし、何でこんな風にぺらぺらしゃべってるんだろう。
 ずっと誰にも話せずに溜め続けていたものが、どうしてか、元子さんに向けて流れ出てしまう。

 「雪ちゃんって――――――わりと可愛いのね」
 「…はい?」

 可愛いなんて、昔から言われ慣れた言葉だったのに、この時はなぜか、脳裏を撫でられたみたいに引っ掛かった。
 そんなあたしを嗤うように、元子さんは綴り続ける。

 「講釈だけはレポートちっくにまとまってて、達観してて、増えた知識と単語の分だけ上辺は大人にはなったみたいだけど、でも、それを制御する雪ちゃんの気持ちはぜぇ〜んぜん子供ね。何て言うか、もっと狡猾に、上手に忖度しながら生きてる子なのかなって印象だったから、意外、可愛い」
 「な、」

 "可愛い"という言葉の真意が、"子供っぽい"という意味だと理解して、目の周りがカっと熱くなる。
 けれど何を返せばいいのか、沸騰した思考では何も見つけられなくて、

 「雪ちゃんって、結構周りの人に優しく甘やかされて育ってきたのね。もしくは――――――」

 元子さんの目が、強く、あたしを見つめてきた。


 「上手に逃げてきた――――――かな?」
 「そんな、事…」
 「肝心なところでは逃げる事に必死になって、足掻く事は即座にやめて。考える事も停止、解決する事も停止、そして周りには、そんな雪ちゃんを優しく見守る人達ばっかり」

 そんな事、ない…。

 「慰めてくれるだけで、ちゃんと本気で向き合いなさいって、叱る人がいなかったんじゃないの?」

 それは…、

 「だってさぁ、雪ちゃん、私にそうやって曝《さら》け出す振りをするところが凄く卑怯じゃない? もう終わったんだって口では言いながらさぁ、構って構ってって、私に期待してるよね?」

 違う、

 「ユキって誰なの? あたしはその人の身代わりなの? 自分では訊きもしないくせに、"そんな事ないわよ、たくみはあなたの事が大好きよ"って、たくみに近い私から、そう言われるのを期待してるんでしょ?」
 「違う!」
 「ほんとに?」
 「あ…、あたしは」

 あたしはただ、

 「じゃあたくみに聞いたの?」
 「何をよ!」

 何なのこの人、

 「ユキの事よ。どんな人だったのか、どれくらい好きだったのか、どれくらい一緒にいたのか」

 他人《ひと》の心、掻きむしるみたいに逆撫でして、

 「マジでむかつく! 最低!」
 「なんだ、ほんとに何一つも聞いてないんだ?」
 「聞けるわけないじゃない! 名前が同じってだけで、ほんっとイラついたし! バカにしてるし! ふざけるなって感じだし!」


 でも、


 「聞いたら…」


 でも――――――、


 「本当の事聞いたら」


 言葉が最後まで紡がれるよりも先に、目からたくさんの滴が零れてしまって、


 「あた、と王子、思い出が、全部、色、失くしちゃ、…ぅ」


 だから、

 だから――――――、



 「――――――馬鹿ね」


 涙の中の元子さんが、雰囲気を変えて優しく笑ったような気がした。


 「そうやって、ちゃんとたくみを怒鳴りつけてやれば良かったのよ」


 あたしの頭を撫でる元子さんの手は、とても暖かくて、


 「あなた、損な性格してるわね。今までも、そうやってずっと呑み込んできて、だからこそ、ずっと心に残ってる嫌な思い出が多いんじゃないの?」
 「ぅ…」

 図星過ぎて言葉も出ない。


 「そういうのが、未練って言うの」

 いつの間にか肩を抱かれて、気が付けば涙は元子さんの肩の辺りに吸い込まれていて、


 「どうせ切り捨てるなら、清々《せいせい》するくらい思いをぶつけてやんなさいよ」

 耳元でそう囁かれれば、


 「ぅ…」


 あたしは初めて、王子以外の人に体を預けて、その温もりに浸っていた。




 どれくらい元子さんの優しさに包まれていたのか。

 「――――――ごめんね、そろそろタイムリミットだわ」

 頭をポンポンと叩いて合図した元子さんがあたしの肩をそっと押して距離をとった。
 こうして会ったのはたったの二度目。
 ほとんど他人に近いのに、こんなに離れ難いなんて、自分でも信じられないけれど、元子さんの体温がもう恋しく感じてしまっている。


 「ふふ、この事、たくみが知ったら怒るでしょうねぇ」
 「え?」

 あたしの濡れた頬を温めるように、元子さんの掌があてられた。

 「言われなかった? 私には近づかないように――――――とか?」
 「…あ」

 "元子ちゃんは、雪には近づいて欲しくない人"

 確かに、王子はそう言っていた。
 その情報をあたしの表情から正確に読み取ったらしい元子さんが本当に"にんまり"と笑う。

 「やっぱりねぇ」
 「…どうして、ですか?」

 まんまと釣られて尋ねたあたしに、

 「――――――内緒」

 元子さんは指を唇にあてながら楽しそうに綴る。

 「でも、タイミングが適切なら、これはかなりの切り札になる筈よ?」
 「え?」
 「あいつらは私を魔物だと思ってるみたいだから」
 「…ま、もの、ですか?」

 すみません、全然意味が理解出来ません。

 どう反応していいかわからず固まってしまったあたしに、元子さんが小さく笑いを漏らす。

 「まあいいじゃない。気持ち、すっきりしたでしょ?」
 「…はい。すっきり、しました」

 痞《つか》えていた何かが、涙と一緒に流れ出してしまったのか、気分だけじゃなく、体まで軽くなったような感じがする。

 「うん。可愛い可愛い」

 最後の一撫でと言わんばかりに両頬を強く親指で擦られて、あたしよりも少しだけ高い位置から見下ろされれば、その色気ある目線になんだか変な声が出そうになって――――――、

 「コホン!」

 不意に、第三者の咳払いが割り込んできた事に、ハッと我に返る。
 あたしは、元子さんと見つめ合っていた目を、逃げるようにして気配の方へと滑らせた。

 「もう、遅いから迎えにきちゃったし」
 「ありがと」

 困ったように目を細める元子さんの腕にするりと自分の腕を絡めたのは、ふわふわヘアが甘めのイメージを醸し出している女の人で、でも年齢はあたしよりは上だと思…ぅ…ん?

 …なんか、あたし、睨まれてますか?


 「それじゃあね、雪ちゃん。私はここで」
 「あ、はい!」
 「二人の事なんだから、ちゃんと二人で話しをしないとね? セックスだって、どっちかが一方的で独り善がりじゃつまらないでしょ?」
 「…ぅ、はい」

 元子マジック。
 下ネタがっつりに、微恥ずかしくても素直に頷いてしまった。

 付き合いの長い克彦君でも、こんなに上手くはあたしを誘導できない。
 他人だから良い時もある、きっとそういう事なんだと思う。


 「ありがとうございました」

 軽くだけど、一礼すると、元子さんは凄く安心したように笑ってくれて、でもまあ、お連れさんはむっちゃガンつけてきましたんで、

 ふん――――――と。

 あたしも鼻息吹かすくらい気合入れて笑い返しましたけど。



 でも、


 「二人の事、…か」


 言われて、

 "分かってるよ"

 って、返しそうになって、


 "逃げてきた?"


 「違う」


 否定したいけど、


 「…違わない」


 元子さんの言う通り、あたしは、ずっと逃げてきた。


 色んな事を、諦めた方が全然楽だと気付いた日から、流されるように生きる事の無責任さに、抵抗もせず埋もれていた。

 見ない振りをしてきた場所に、元子さんの言葉が突き刺さり、その余波で、人との関係を努力していた幼くて柔い部分を覆っていた殻のようなものが、まるで花びらのように散り開く。

 それは本当に、穏やかに――――――。


 「もう、逃げてちゃダメだよね…」


 だからと言って、王子に何をどうすればいいのかなんて判らなくて、


 「こうなったら、出たとこ勝負。――――――頑張ります!」


 腕に甘えられて楽しそうに笑っている元子さんの後ろ姿に、あたしは自分に活を入れるため、誓いのように宣言した。











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