小説:食べられる花


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Episode:雪


 そして翌日。

 冷めない内にガンガン打たなきゃねって事で、あたしは気合いを入れて、朝早くから管理業者専用のエレベーターホールにある自販機の傍に立っていた。
 ここを通るのは関連業者の人達と、王子のように何かしら特別権を獲得している一部社員だけ。
 それなら裏を専用駐車場として利用している役員達やV.I.Pのお客様はどこから入るのかというと、実は裏の通用口を守る警備員室の傍にある非常扉を開放した先が、上層階直通のエレベーターホールとなっている。
 この事を知っているのは社内でも一部の部署の社員だけ。
 あたしは総務で受付をしていたから、セキュリティ誓約書に他の社員より項目が多い状態で署名をさせられて、有事の際の避難指導まで受けていた。

 突っ込んで尋ねはしなかったけれど、王子は車通勤で、駐車権を持っていて、表ロビーから出入りするのは滅多にない。

 「ここで待っていれば多分…」

 落ち着かない気持ちでオンライン小説を読み続ける事も出来ず、気が付けば自販機に並んだ商品名を眺めて三十分。

 「無謀だったかなぁ…」

 社内チャットとか、繋がろうと思えばどうにか出来るメッセージアプリを駆使しようかとも思ったけれど、それだと文言を考えている内に萎えて先送りしそうな気がするし、この複雑な想いをぶつけるには生身の方がいいかなと考え直して、結局はこのアナログな体当たり手段。
 もし就業時間《シフト》までに捕まらなかったら、…部署に行くべきかどうかは、後でまた考えよう。
 王子の同僚にはあたしはご飯食べ仲間として認識されている筈だし、そんなに怪しくもないと思う。

 改めて気合を入れたとこだったのに、

 「…げ」

 人の気配がして、目を向けてみれば、歩いてきたのは室瀬咲夜さくやだった。


 「――――――お前…」

 眼鏡の向こうから胡散臭いものを見るような目が突き刺さってくる。
 って言うか、この前から幾度となく思ってたんですが、

 「お前って、呼ばないで貰えますか?」

 ムッとした気持ちに笑顔の膜を張って言い返してみたけれど、

 「あ〜」

 記憶を探るような目の動きをさせた後で、

 「――――――ユキ」
 「はあッ!?」

 喧嘩を売ってるとしか思えない発言に、頭が熱くなる。

 「下の名前もやめてください! 藤代です!」

 絶対に本気であたしの名字、覚えてないでしょ、こいつ。

 「知ってる」
 「絶対に嘘ですよね」
 「たくみ待ってるのなら、さっき帰ったぞ」

 スルーされた。
 うえに、

 「帰った…?」

 齎された無慈悲な答えに、気合は一気に水蒸気へと化してしまう。

 「昨日のバージョンアップで流し込み作業にシステムエラーが出て、その修正で徹夜だ。さっき外ですれ違った」
 「そう…なんだ」

 くそう、勢い、これで完全に消沈だわ。

 「――――――ご用なら、呼び戻しましょうか? 藤代さん」

 スマホを手にして、微かに笑みを含みながらも明らかに厭味で使われたその敬語に、あたしは拳を握って言い返す。

 「結構です」
 「そうか?」
 「ええ! では失礼します!」



 ――――――あたしのバカ。


 意地を張らずに、室瀬《あいつ》に連絡先聞けば良かった。

 でも、いちいち逆撫でしてくる感じであいつとは本当に反りが合わない。
 きっとお互い様なんだろうけれど、


 それでも、


 「失敗」



 …後悔、先に立たず。

 泣きそうな気分でPCを起動させて、長くなりそうな本日の業務の準備を終えた時、アクティブになった室瀬咲夜さくやからのチャット内容に目を瞠る。



 "さっさと行け"


 「…嘘」


 王子の住所が二行目に書かれたその画面の輝度は、いつもの何倍も眩しく見えた。





 ――――――とは言え。

 じゃあ帰りますなんてそれは心情的に難しくて、良識的な範囲として自分に許せた午後休について、リーダーに相談して獲得《ゲット》。
 体調不良以外に初めての相談だったから、手放しで快諾をいただけた。

 前向きな気持ちはやっぱり仕事の効率も上げて、最近は冴えていなかった対応時間も本日は余裕で目標をクリア。
 待ち呼ランプが消えたタイミングを狙って中休憩のコードに切り替えて席を立ち、皆藤さんと越智さんが珍しいくらいの柔らかい雰囲気で談笑をしているスーパーバイザー席を横目に歩き進む。

 …西脇さんは離席中か――――――。

 室瀬咲夜さくやとどういう進行状況なのかをつつきたくてウズウズしていたけれど、タイミングがなかなか合わない。
 って言うか、人の色恋に興味を持つのも、克彦君と梢ちゃん以来の革新だ。
 二人が付き合い始めた頃には、あたしは既に人の顔色ばかり窺って、誰かの事を本気で考えるよりも、どう立ち回るかの為の目線でしかなかったから、恋バナは楽しいものじゃなかった。

 「…結構、浮かれてるかも…」

 西脇さんと室瀬咲夜さくやの事を考えながら、ふと王子の事を思い出してキュンとししてしまった自分の恥ずかしさを胡麻化すように、手にしたICカードをセンサーにかざそうとして、


 「――――――水瀬も漸く婚約ね」
 「長かったなぁ」

 耳に入ってきた、ため息に近い低音の会話に、思わず振り返る。
 途端、こちら側を向いている皆藤さんと目が合ってしまった。
 薄いピンクのシャツに、今日は月曜だったなと皆藤カレンダーが脳裏で展開されるけど、それはおいといて、

 「もしかしてぇ、水瀬さんって、企画部の水瀬さんですかぁ?」

 あたしが知る限り、二人の話題になる水瀬さんは一人だけだ。

 「ああ」
 「水瀬さん、結婚するんですか!?」

 思わず食いの勢いで二人に近づいた。
 だって、あんなに王子の近くにて周囲を牽制していた人に、プライベートでは彼氏がいたって事?

 「全然気づかなかったですぅ」
 「いや、別に隠してるわけじゃないんだがな、本人達は」

 あれ?

 「お相手の人、社内の人ですかぁ?」

 それなのにあんな風に王子に侍《はべ》ってたんだ?
 彼氏、心豊か。

 「直ぐに大々的に広まるだろうから相手が誰かは直ぐにわかるわ。事情を知ってる人に、先に一報くれたって程度だから」

 それはつまり、これ以上は突っ込んでこないでねって意味で、今日も乱れなく美しくセットされた髪型の越智さんは、完璧な作り笑いで興味津々だったあたしを撃退する。

 「…はぁい。それじゃあ、ちょっと散歩《きゅうけい》してきまぁす」
 「おう。しっかり休んでこいよ〜」
 「はぁい」


 握ったままだったカードをセンサーにあてて認証させ、開いたドアから廊下へと出る。

 「婚約――――――かぁ」




 "結婚したい"


 ふと、王子の熱の籠もった声を思い出す。


 "雪と結婚したい"



 日付的には、そんなに昔の事じゃないのに、記憶がすごく遠い。
 それでいて、まるでそこに火があるように、言葉の一つ一つが凄く熱く耳に蘇る。



 "遠くない内に、家族になって、一つの家に一緒に住みたい"


 あの時、王子に握られた指先を、あたしはずっと自分の掌で温めてきた。
 それでも、いくら表面は癒せても、骨のずっと奥は冷えたままで、一人ではどうしようもないってのはそういう事なんだって、気づきながら目を逸らしてきた。


 "今度は、指輪を贈らせて?"



 「…寂しい」


 王子の傍の温かさを知る前は、この感情をずっと忘れていた。
 子供の頃、それを欲していた事も忘れていた。


 「寂しい」


 あたし、


 「――――――ッ」



 想うだけで、涙が溢れてくる。


 ああ、こういうのが、



 「愛、しちゃってたんだなぁ…」



 目の縁でどうにか止めた涙の粒を手の甲で拭って、あたしは大きく息を吐く。


 引き締めた筈の唇の端から零れる幸せに、どうしても口角は上がる一方だった。





 ――――――
 ―――――


 「――――――な、な…んじゃこりゃ」



 春霞の青空を背景に、あたしの目の前にそそり立つのは、とにかく偉そうな高層マンション。
 肩にかけたバッグのベルトをギュっと握りしめてから、もう片方の手でナビを再表示させる。

 残念ながら、このマンションが目的地で間違いはなさそうだ。


 「202…やっぱりこれって、入力ミスじゃなくてゼロ二つだったの? 2002号室って事?」

 どう見ても、二階部分はガラス張りの専用カフェで、時給が高そうだと遠目にもわかる有能そうなスタッフ達が動き回るそのお店の、お隣とか、ここからは見えない建物の向こう側とかに、王子の住む202号室があるとは、



 「――――――思えない…」


 絶対に三十階以上はありそうなマンションだ。
 あやつ、まさか本当に王子だったとは。


 「ど…」


 どうする、雪。

 これはちょっと色々と、何ていうか、かなり挫けた。


 王子に会いたいという気持ちと、ナニコレ、あたし、このまま王子の傍に行っても大丈夫なの? と混乱する気持ちとが、ぐるぐる回って回り続けて、

 「やばい、三半規管が震えてる」


 何かを考えたいのに、ぜんっぜん、纏まらない。

 って言うか、まずあたしがこの建物の中に入れるかどうか、それすら疑わしいんだけど。


 ガラスが反射していて入り口の向こう側は全く見えなくて、まさか噂に聞くコンシェルジュが居たりして…なんて、好奇心半分、不安半分。

 どうやって入ればいいのかも、補足しといて欲しかったよ室瀬咲夜さくや

 知ったつもりになっていた王子の事が、急に透明に思えてきた。



 「克彦君…」


 聞けば、教えてくれるだろうか。


 宮池たくみは何者なのか。
 室瀬咲夜さくやの本来の姿を守るため、人事部を手足《ブレーン》として巻き込める秘密《なにか》に、王子もやっぱり含まれているのか。


 例えば、うちの社長の御曹司?
 苗字が違うから考えもしなかったけれど、夫婦別姓だってもう特別じゃない。
 元々が海外にもやり手で知られる実業家であり資産家だって話だから、息子ならこんなマンションに住んでいてもおかしくはない。

 なら室瀬咲夜さくやは?
 親会社ならロランディ・グループだけど、


 「…――――――ない、かな」


 室瀬咲夜さくやが色気ある男なのは認めるけれど、興味津々でWebで見た、パパラッチが撮ったという一家勢揃いの写真には、黒髪の人物はいなかった。


 「いやいやいや」

 どっちにしても、これは、ピンポンするのに相当な勇気要るわ。


 エントランス近くまでは足を向けて見たけれど、どうしてもその先に進めない。



 「――――――明日にしよう」


 うん。

 会社に来たところをチャットでつかまえよう。
 食堂だとまずいから、駐車場とか、いっそ車の中で話させてもらおう。


 よし。



 決意を固めて歩道へと戻りかけて、


 「…ぁ」



 あたしは、向こうから歩いてくる見知った姿に、まるで時間が止まったかのように動けなくなった。



 会社にいる王子と、少し違う。

 あたしの部屋で寛いでいた時の王子とも、少し違う。



 「少しは遠慮とかしろってマジで」
 「もう、これくらいで悲鳴上げてるようじゃ、頼りがいのある旦那様にはなれないわよ?」
 「こんだけ買い込むんなら車出した」
 「こうして歩くのもデートの内なの」


 そしてそんな王子の、隣を歩く水瀬さんも、


 「来週からね、マージュ・ケリのブライダルエステに通うの。もうすっごく楽しみ」
 「はいはい」
 「ブーケはね、千愛理さんにお願いするから」
 「ああ、――――――指輪、似合ってる」
 「ふふ、ありがと」


 指輪の光る左手を口元に添えた照れた笑顔が、これまでに見たこともないくらい、美人なのに可愛くて、



 「――――――雪?」


 「え? 藤代さん?」



 何だか美男美女でお似合いの二人《カップル》を前に、あたしは、耳鳴りのような音と共に、思考を止めてしまった。





 「雪、どうして…?」

 明らかに困ったような表情をした王子に、飛びかけていた意識を取り戻す。
 会社での他人顔の声じゃなくて、プライベートの王子の声音に、これが現実だと脳を揺すられた。


 「ぁ…」


 あら偶然、


 そんな一言が、声にならない。
 まるで話し方を忘れてしまったみたいに、――――――違う、息も吸えない、まるで時間が止まったみたいに、周囲から音が消えていく。


 「たくみさん、藤代さん、顔色が悪いみたいだから、上がってもらったら?」

 水瀬さんの言葉に、あたしの背中はスッと冷たくなった。

 上がるって、二人の空間に…?



 「――――――だ…大丈夫ですよぉ、ちょっと意外な組み合わせに驚いてただけですからぁ」


 そんなの、絶対に嫌だ。


 「雪、ほんとに顔色が…」
 「大丈夫ですからぁ」


 あたしは藤代雪。

 適当で、見た目だけで、中身なんかなくて、合コンには向いているけど彼女には向いてなくて、そんな経験が多いからか、場の空気を読むのは結構上手で、


 「でも、びっくりしましたぁ。お二人とも、いつの間に――――――」



 あたしの役どころは、元カノじゃなくて、同りょ…、



 「…」



 あれ…?

 なんだろう、これ。



 「雪…?」

 心配そうな現実の王子の声に引きずられて、



 "――――――雪と、結婚したい"


 かつての王子の言葉が、涙になってあたしから地面へと落ちていく。



 "そう遠くない内に、家族になって、一つの家に、一緒に住みたい"


 その染みた涙の跡と同じくらいの大きさの波紋が、ゆっくりと、あたしの心の底で広がった。


 "今度は、指輪を贈らせて? 雪"


 この感情は、何だろう。

 悲しみ?

 怒り?




 「…あれから、まだひと月じゃない」


 涙が落ちた後の瞳で捉えた王子は、眉間をこれでもかと寄せまくって、これまでに見た事もない険しい表情《かお》をしていた。



 「あたしは、」


 今のあたしは、

 物凄く可愛くて、コールテーカーとして社長賞だって貰った事あるし、親友はいないけど、気の合う仲間はWeb上にだけどちゃんといて、親身になってくれる幼馴染夫婦も現実《リアル》にいる。


 「あたしは――――――ッ」


 こんなあたしなら、王子の傍にいれるかなって、ちょっと自信を持ちかけたところに、ユキの話がやってきた。


 「あたしは…」



 王子を知る前のあたしとは違う。

 もっと、ちゃんと、
 もっと、ちゃんと、


 好きな人と、ちゃんと生きていけるあたしになったって、そう信じて、


 「…ぅ」


 そして、


 そんなあたしを受け止めてくれた王子だったからこそ、

 本気で好きになったのに、


 「王子のバカッ!」


 こんな短期間で別の人と結婚とか、


 「こんの浮気者!」
 「え?」
 「似非王子!」
 「ちょ、」
 「処女返せ!」
 「えっ、」

 「ショ、どういう事!? たくみさん!?」
 「あ、いや」


 水瀬さんに凄い形相で詰め寄られてるけど、知らない。



 「あたしはまだ、たくみのマイスノーだったのに――――――」


 謎解きのようなセリフに、王子の目が見開かれる。


 まだ、枯れてなかったのに。

 まだ、食べられたのに。



 「雪――――――」


 きっと、何かしらの答えを紡ごうとした王子の唇が動いたのを見て、


 「雪ッ!?」


 気が付いたら、あたしは逃げるように走り出してしまっていた。








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