小説:食べられる花


<食べられる花 目次へ>


Episode:資


 「待って、雪――――――!」


 俺の呼びかけに惑いもせず、肩を過ぎたクセッ毛のふわふわ髪が一定のリズムで左右に揺れて遠ざかっていく。
 思わず駆け出そうとしたところで、両手に持ったパンパンの買い物袋が枷になった。

 「あ、えっと…」

 同時に、厳しい目つきで仁王立ちしている水瀬いずみの存在を思い出してそのご機嫌を窺い見る。

 「…後で、どういう事なのかきっちり説明してもらいますからねぇ? たくみさん」

 綺麗な形の眉をこれでもかと斜めにした面《かお》は、普段から彼女を怒らせないようにと尽力している従兄の行動《じゅうじゅんさ》の根拠。

 「や、それは、まあ…」
 「いいから早く行って。今彼女を見失ったら、人生からも失うわよ、きっと」
 「え?」
 「本気で終わりを決意した女は、カスも残さず上書きするから。そうなったら男は、泣きながら指くわえて見送るしか術はないの!」
 「…怖いなぁ、その予言」

 苦笑交じりに言いながら、荷物を歩道の隅に置く。

 「ごめん」
 「ディナーのお断りの連絡も結構よ。彼と二人でまったり過ごす事にするから、むしろ来ないで」
 「了解!」

 漸く、駆け出した俺の背中を、


 「たくみ!」

 兄弟同然の従兄の婚約者であり、幼馴染みとも呼べるいずみの声が追ってくる。



 「あなたいい加減、その良い子ぶりっ子、やめちゃいなさぁぁぁい!」




 いい子ぶりっ子。


 「はは」


 さすが、従兄と揃ってずっと俺を気にかけてくれている幼馴染。

 言い得て妙。
 俺の性格を表すなら、これほどに的確な言葉はない。



 『たくみさん、シッターを煩わせるような事はないようにね、良い子にしているのよ?』
 『大丈夫だよ、たくみは私達の子だ。ちゃんと人も物事も見えているさ。そんな事より、この前の研究データだが…』


 両親は、病理学の世界ではかなり名の知られた夫婦で、長い時は数年、短い時期だと半年で、世界中を転々としていた。

 季節ごと、国ごと、文化ごと。
 服を変えるより早く入れ替わる世話係。
 気さくな人、うるさいくらいに頻《よ》く笑う人、ヒステリックな人、仕事をこなす以外は目すら合わせない人、生活費を懐に入れる人、母親になり切って過干渉になる人――――――。
 子供心で、人の表裏を何度も見上げて育った俺は、気が付けば、周囲の人間の顔色を読み、自分を抑え、穏やかに一日を終える事だけを目標にする上辺だけの子供に仕上がっていた。


 そして十二歳の時、俺の人生にトータルで何年関わったのか、自虐ネタにしかなりそうもない名ばかりだった両親は、ハイウェイで起こった玉突き事故に巻き込まれて本当に呆気なく死んでしまった。

 火葬という慣習がない国で、日本の文化を理解してもらえるのは難しく、遺体をどうやって日本に持ち帰るか、父方の伯父である土方さんを含めた大人達が話すのを、ずっと手を繋いでくれていた従兄の佑《たすく》の隣で聞いていた。
 時々、いずみが食事を持ってきては食べるように勧めてくれて、夢のように霞んだ世界から、まるで映画のようだと、俺を取り囲む現実をぼんやりと見つめていた。

 日本に戻り、無事に火葬を済ませた後、伯父には、自分の養子になって日本の中学へ通うように説得されたけれど、その話を進めている時の奥さんの表情が僅かに陰りを見せている事に気づいて、俺は以前から視野に入れていた東海岸《アメリカ》のパブリックスクールに進むことに決めて、


 『――――――居場所、ないな…』
 『ぅんなぁ』

 呟いた俺に、応えてくれるのは、寮に入った翌日に敷地内の森で出会った真っ白な猫だけ。
 初めて会った時は薄汚れていたけれど、エサを与えながら濡れタオルで根気強く拭い続けていたら、結構な艶が出ていい猫《こ》になった彼女は、俺の唯一の友達だ。

 編入試験を受けて中途で転校してきた俺はどうやらかなりの異端らしく、クラスの皆からは遠巻きに見られるだけで必要以上に話しかけられる事もなく、バカ高い寮費に見合った一人一部屋の完全プライベート制と、時間内であれば自由に食べられるバイキング形式の食堂《コート》では図書館のように仕切られた一人シートもあって誰かといる事を強要されない。

 何人かいる日本人には声をかけられたけれど、急に仲良くなるわけでもなく、ただ流されるように過ごしている。


 どこにいても、一人で過ごす宿命からは離れられないらしい。


 『まあ、今はお前がいるだけマシかもなぁ』

 いつ引っ越しするかわからないから、ペットを飼うことも検討すら許されなかった。

 『な、ユキ?』
 『んな?』

 色が白いからユキ、なんて、安易に付けた名前を呼びながら指先で喉をくすぐれば、あっちもこっちもと顔の向きを変えてくる動きがむちゃくちゃ可愛い。


 『やばぃ、可愛すぎて悶える』

 気まぐれなユキは、撫でさせてくれる時間はそう長くはない。
 許してもらえる内に構い倒してやろうと両手を構えた時、


 『珍しいな、ネロが素直に撫でられてる』

 言いながら、高い木々の葉の間から零れ落ちる陽の粒の中をやってきたのは、淡い金髪に、サファイアよりも深い青の眼差しを持つ、別のクラスのサクヤ・ロランディだった。



 ネロ?

 ネロって確か――――――、


 『なんで、白なのに黒?』

 イタリア語で黒がネロ。
 そう言えば、サクヤ・ロランディはイタリア系だと誰かが言っていた気がする。
 友達のいない俺がなぜそんな噂を知っていたかというと、ふと生徒達の間で話題になるくらい、サクヤが有名人だったからだ。

 血筋と、家柄と、それから抱えるグループが持つ資本と、十三歳にしてそれなりの個人資産があるらしいなんて話で、もろもろに。


 『ああ…、もしかして、体が汚れて黒かったから…とか?』

 俺の言葉に、サクヤは生真面目に首を振る。

 『いや、そいつ、瞳孔がむっちゃくちゃ開くんだよ。黒目しかなくなるくらい』
 『え?』
 『それが印象的でネロ。でも他の奴は別の名前で呼んでるよ。オレが知ってるだけでも四つはあるから』
 『へえ…』
 『けど、エサを貰う事はあっても、あまり近づかせないんだ。お前、よっぽど気に入られたんだな』

 言われて、ユキを見る。
 今は半分だけの瞳孔が、"何よ"とセリフを紡いでいた。

 『ごめん、何でもない』

 思わずユキにそう返していた俺に、サクヤが声を上げて笑う。

 『何お前、猫と会話?』
 『え? あ』
 『あ、別にバカにしてるわけじゃなくてさ、きっとお前がそういう奴だから、こいつも寄ってったんだろうな』
 『…』

 しばらくして、漸く気づく。


 『日本語…?』

 サクヤとずっと、英語じゃなくて日本語で話していた事に。


 『おせぇよ』
 『いや…、凄く流暢だったから、違和感なくて…』
 『親父が日本人だからな』
 『…そう、なんだ』

 納得して頷きながら、親の母国語が話せるって事は、親子の会話がちゃんと成立してるんだろうなって素直に羨ましく思えた。
 小さい頃、日本語が苦手だった俺に、慌てて家庭教師をつけるよう両親に勧めたのは土方の伯父だった。
 我が子の言語がどうなっているかすら、あの人達にとっては研究成果ほどに価値がなかったという証明だ。

 『ようこそ、タクミ。自由な不自由へ』


 不思議な言い回しだったけれど、確かに、規則にうるさい寮生活。
 ここに入ってきた生徒達は、世間や家の柵からはある程度隔離されて自由になるけれど、そういう意味では不自由でもある。

 『オレはサクヤ・ロランディ。日本名だと、室瀬咲夜さくや
 『…宮池、たくみ
 『よろしくな』
 『こちらこそ…』

 差し出された手に、俺は戸惑いながらも手を合わせる。

 俺達を見上げるユキが、『良かったね』と嬉しそうに一啼きした。








著作権について、下部に明記しておりマス。



イチ香(カ)の書いた物語の著作権は、イチ香(カ)にありマス。ウェブ上に公開しておりマスが、権利は放棄しておりマセン。詳しくは「こちら」をお読みくだサイ。