ゆき。 藤代、ゆき。 藤代、雪――――――。 白い、雪…。 SNOWの、ゆき…、 雪…。 ゆき…――――――、 藤代、雪――――――、 雪…。 『――――――見過ぎだろ、 『え?』 視界を大きな手に遮られて、 『 ぼんやりと名前を呼び返せば、正面の呆れ顔はダメ押しのように息を吐いてくる。 『まさかオレが、お前にこのセリフを言う日が来るとはな』 『…ぃや…』 言い返そうとしたけれど、やっぱり脳がまだうまく再起動出来ていないのか、何を言えばいいのか咄嗟のアイデアがない。 確かに、 『ん、でもなんか、――――――俺のこの盛大な戸惑いも解って欲しいんですけど、 『…何を戸惑う必要があるんだ? 気になっていた女がフリーなら万々歳だろ』 『いや、待って 『…わかったから、さっさと食え。麺がのびてワカメも育ってるぞ』 『げ』 言われて見下ろした手元のラーメンはうっすらと緑色を反射させるほどワカメが広がっていて、 『…箸で切れる…、柔い…、まずい…』 『だろうな』 口内で崩れて消えていく麺のドロドロした食感に苦しみながら、再び遠目に藤代さんを見る。 彼女が小首を傾げる度に、肩口で揺れるふわふわした髪。 誰かの大きな手振りを目線で追いかける仕草から何となく目が離せない。 『…なんで"ゆき"なんだろう』 やっぱり頭から離れなかった問いが、思わず口に出てしまっていた。 残り少なくなった今日のAランチ焼肉チャーハンをスプーンの先で集めていた 『――――――お前が 紡がれたその答えに、一瞬思考が止まった。 『… 『それも愚問だな』 うわ、答える気ゼロ。 『…』 長い付き合いだからこそ判る。 さっきまで けれど、相手にされていないような気がするのはなぜだろう。 『ま、いい機会だ。そろそろ人間の女も恋愛対象に昇格させてみたらどうだ? ユキ相手じゃ出来なかった事が色々出来るぞ』 『え――――――?』 一瞬、頭が真っ白になる。 すると、 『…まさかお前、ユキを相手に――――――?』 『違う! どんな攻撃だよ、ダメージないけどなんか有効、ほんとやめて』 慌てて全力否定すれば、返ってきたのは 『ちょっ、… 『…わかった。そういう事にしておいてやる』 『いやいやいやいや』 悪戯を楽しむように口元を上げたその態度に、さすがに食い下がろうかと意気込んだところでテーブルに置いてあった 『時間だ』 『お』 『いいよ、ちゃんと時間いっぱい昼休憩とっとけ』 空になったトレイを手に立ち上がった 長期で日本を離れる前に、少しでも しかも、 『気を付けてね』 『ああ。――――――…頼んだ』 『ん、了解』 別に何が起こるわけでもないだろうけど、 一般的な秘書業務もこなした上で、個人的《プライベート》な部分を任されるという、各国にいる 仕事に大した目標もなく進んできた俺にしては、なかなかの現状。 それと相まって、親友としても、 …ストーカーと呼ばれない為のストッパーとしても、ね。 『――――――で? どうして ここは亜希が経営するレストラン。 一体、 『悪くないんじゃない? ユキの返事は"んなぁ"だけど、人間の女の子なら" 『…ユキの心の声は聞こえてた』 『うん、否定はしないけど、オレも時々、ユキが 大きな黒目が俺を見て、何か言いたげにした時のユキの声は、思い出すだけで胸に沁みる。 乾いていた心のどこかが、急に潤んで満たされる程に。 『…結構、こんな時間でも人はいるんだな』 メインディッシュ以外はバイキング式のスタイルが基本の店内に、友人としては安心できるほどの人が動いている。 いつも貸し切りか、来ても事前セッティングで夜に奥の個室を使う事が多いから、こうして日中に稼働状態《ふんいき》を直に感じるのはもしかしなくても初めてだ。 『ブランチタイムの方が女の子の稼働がいいんだよね。モールのフードコートはお昼時間、当然満席でしょ? 買い物行く前に待ち合わしながらって。モーニングはご近所さんが多いんだけど、今はちょうど入れ替わりのタイミングかな』 『へえ』 ――――――え? 『藤代さん…――――――』 スタッフに案内されて、今まさにオープンテラスの席についたのは、間違いなく藤代雪で、 『え? …えっ? 噂の雪ちゃん? 嘘? ほんと? どこ?』 立ち上がって両手を望遠鏡のように丸めながら探し出した亜希にぎょっとする。 『立つな! 見つかる!』 『大丈夫大丈夫、向こうから中は見えないよ。それよりどの子? 素直にさっさと教えないと、クレジットカード決済で半額キャンペーン始めちゃうよ?』 『亜希…、犯罪の匂いがする、それ』 普段は、周りをよく見て優しく立ち回る奴だけど、こういう事態には一番積極的で怖いもの知らずなのを忘れていた。 『ほら早く、どの子?』 『…丸テーブルのとこ、一人で座ってる』 『――――――あの子!? あの子知ってる! 大体月イチで通ってくれてるんだよね。ハーブハンバーグが大好きでさ、ほら、今日のメインには入ってないから、メニュー見てがっかりした、ううう、ごめんねぇ』 言われて見ると、スタッフが申し訳なさそうな顔で一礼を返していて、藤代さんはそれに苦笑している。 それにしても…、 『月、イチ?』 『そ。彼女、いつも外だから会わなかったんだねぇ。うわぁ、今まで接点無かったの、凄く残念。同じ会社の子なら、ここで会ってればもっと早く近づけたかも知れなかったのに』 『…』 どう、なんだろう。 同じ会社の同僚だからという理由で、"ぷーん"の藤代さんを気に留めただろうか…? 『…いや、どうかな。早く会ってたとしても、今と同じようには、目に映らなかったと思う』 俺の答えに、亜希はチラリと、その焦げ茶の目を瞬かせた。 『そうなる切っ掛けが、 『…切っ掛け…』 それまでの印象と、違って目に映ったのは何が切っ掛けだったか。 記憶を手繰るように視線を巡らせて、テーブルの一輪挿しの花を見る。 『…エディブルフラワー』 『え?』 『従兄だって奴に見せた、それを食べた時の顔が――――――』 可愛いと、そう、思った事が、本当の彼女の姿を探すようになった切っ掛け…。 でもそれはただ、発見に近い感動が僅かにあったからで――――――、 『普段とは全然違う表情《かお》、するから…』 『――――――なんだ』 ふふ、と。 亜希が目を細めて俺を見る。 『名前とかの前に、もう 『…それは』 『だって名前知る前でしょ、それ』 『…』 『ほら、一応自覚はあったんだ』 『…まあ』 なぜか気になる。 そう捉えていた事に気づいていなかったわけじゃない。 ただ、 "ゆき"という名前が、そんな防壁を吹っ飛ばしてくれたけど。 『あのさ、 亜希が、テーブルに両腕を乗せて顔を近づけてくる。 『お前がなんでそこで足踏みしてるのか、オレは何となく解ってるつもり。――――――多分、 『…亜希』 『雪ちゃんには悪いけど、楽しんでみたら? って思う』 『…楽しむ…?』 『うん。 『…まあ、躱されてる感じ、かな』 藤代さんサイド――――――例えば堂元さんなんかが聞いたら、随分な話をしている亜希の眼差しは凄く穏やかで、 『なら、どんなに ゆっくりとした視線の動きに釣られて目を向ければ、スマホを見ながら自分の時間を楽しんでいる藤代さんがいて、 『十中八九振られるとして、――――――でもそれはつまり、 確かに、彼女が俺を好きにならなければ、それはとても――――――、 『まあ、百万が一、む、っっっ、ちゃくちゃこんくらいの、本当にこれっくらいの可能性で、完全に二人が両想いになったとしたら、まあ、それはその時に考えればいいんじゃない?』 亜希の親指と人差し指で作られた高さは、隙間があるかと言うほどの表現で、 『…そう、だね』 藤代さんが俺を好きになる可能性は低いのだという現実。 それはとても、 ――――――とても俺の中の何かを安心させた。 亜希の言う通りだ。 多分彼女は、誰もが知っている宮池 見た目王子様という表面だけでおちるなら、もうとっくにそうなっていてもおかしくないくらいには、にっこり愛想は振り撒いてきた。 彼女にとって異性の魅力の基準が堂元さんだとすれば、俺がその枠に入る可能性はほとんどない筈だ。 ドクドクと胸の鼓動が熱く音を高める。 名前が"ゆき"だったからと言って、これまでと何が変わるのか。 実際、藤代さんから見れば、ゆきはゆきで、名前以外の何物でもなくて、何も変わりはないわけだし、 俺も別に、彼女の名前が"ゆき"だからと言って、今までと何かを変える必要はなくて――――――、 "なんで"ゆき"なんだろう" "お前が 『ほんと、愚問だ』 ユキと同じ名前に、どこまで翻弄されたんだか。 『ちょっと挨拶してくる』 『え? ――――――ああ、うん。わかった。うん』 立ち上がった俺に、亜希の歯切れが急に悪くなったのは気になったけれど、 "彼女が俺を好きにならない限り、何も変わらない"という希望《ことば》が大きく頭の中で鳴り響いて、俺は意気揚々と藤代さんに向かって歩き出した。 |