表向きは、社内のシステムオペレーション開発のサポートをする部署の一員で、実は会社のオーナーでもある室瀬 『はい、藤代さん、これ、出張土産』 『…ぅわあ、ありがとうございますぅ、 『どういたしまして』 藤代さんが俺の名前を呼び始めたのは夏の頃、いずみがちょっかいを出して、営業支援部の武田さんや秘書課の春日井さんを巻き込んでのグループランチが行われるようになってからだ。 『だって、 『それよりも何よりも、何が面白いかって、宮池に口説かれてる時のあの藤代の引き攣った顔!』 『わかる! あれじゃあ一般女子は騙せても、私達は無理よねぇ。甘くて可愛いったらないわ〜ないない』 一番目のセリフは言わずもがな従兄の婚約者、水瀬いずみで、二番手は、俺が 威嚇するように藤代さんを囲んではいるけれど、裏を返せば彼女達の獲物には誰も手を出さないし、出せる筈もない。 女性が昇進する会社、働きやすい会社としての宣伝活動に一役買っていて上層部に覚え目出度い彼女達の影響力はかなり大きい。 そして、 『――――――意外でした』 毎月のオーナー案件での人事処理対応を終えた後、資料を手に席を立ちかけた堂元さんへと意図して話しかけると、 『何か?』 漆黒の目が探るように俺へと向けられる。 『…藤代さんの事です』 『――――――ああ』 間を置いたのは、果たしてわざとなのか、 『雪はもう社会人です。従兄というだけで、僕が雪の全てに関与する必要は感じていません』 そう。 むしろ、静かすぎて怖かったのはこの堂元克彦の沈黙対応。 かえって色んな事を想像させられて、何を言われるかと戦々恐々周囲を窺っていたら、平和に季節を越してしまった。 もしかすると、自身の秋の結婚式に向けて、その準備で個人的に忙しかったからという理由が主かも知れないけれど、それでも、 『遊びなら、雪の心を掴むのは難しいと思いますし、本気なら、生半可な気持ちでは支えきれない。僕の従妹は、良い意味でも悪い意味でもそういう重みがある存在です。――――――最も、佑《たすく》さんにとっても、あなたもそういう値がついているようですが』 『それ、は…』 佑《たすく》が、一体どんな触れ込みをしたのか、気になるところではあったけれど、二年以内を見据えている社長就任への手土産をアメリカで根回し中のあいつとは、ほとんど顔を合わせる事が出来ずにいて、 『雪から僕にあなたに関する苦情がきても出来るだけ躱してはおきますが、ストーカーとしてコンプラに駆け込まれたら専務でも庇う事は難しいと思いますので、その辺りの匙加減はうまく調整してください。もちろん、本当に雪が精神的に参っていると判断できた場合は僕自身がそれなりの措置をとるつもりです』 『…了解です』 敵ではないけれど、味方でもない。 有難いような有り難くないような、それでも、藤代さんとの攻防戦への影響は少なかったからラッキーだった。 その間、俺の中で確たる変化も進化もなし。 俺と藤代さんとの関係に至っては、交流を持っている分、変わらない立ち位置同士の実質的な距離はむしろ、空いてしまった事になる。 『…でも、安心するんだよね…』 何も進まない距離感の安寧。 穏やかに、このまま――――――、 ただこのまま――――――…、 ―――――― ―――― 『あれ? 藤代さん、こんな時間にお昼? 奇遇だね』 時計はもう十四時前。 今日は何も意図せず社食に顔を出したのに、藤代さんとも 『もっしもーし? 藤代さん?』 こっちは完全に意図的無視で、 『藤代さん?』 何かをぶつぶつ言いながら拳を握り、 『た…、 言葉の裏に、ほっとけよサインの尻尾が見える。 『会議が長引いちゃってね。月初だし、今週はそっちも忙しいんじゃない?』 A定食のカツカレーをテーブルに置いて、藤代さんの隣の席の椅子を引けば、当然、嫌そうに瞼が震えたのが見えた。 …可愛い。 撫でたい。 ああでもさすがに、会社でやったら完璧に嫌われそう。 それは嫌だ。 最近は亜希の店にも顔を出す回数がかなり減ったみたいだし、あいつも、客の情報を渡すようなボーダーラインは決して超えないから、会いたければ毎週末に張り込むしかないわけで、けどそれにも限界がある。 指先が、藤代さんの髪の毛の感触を求めて乾いてる――――――。 『そ、そうなんですよぉ、もう忙しくてぇ。あ、でもぉ、西脇さんとか、管理側だともっと大変そうですけどねぇ、月末から月始めにかけてはぁ』 『そうらしいね。 隠さずにぶっちゃければ、藤代さんの目が責めるように俺を捉えた。 薄情な奴、という事らしいけど、 『どうせ気づいていたでしょ? 藤代さんは害は無いと信じてる』 肩を竦めて小さく笑い、カレーを一口。 ランチタイムが 濃縮された熱量は、一度気づけば見ない振りは出来ないほどだ。 時々、藤代さんが呆れ顔で それに、藤代さんに情報を与えて繋がる事は、咲夜《こっち》にメリットがないわけじゃない。 『――――――長いですよねぇ? 告白とかしないんですかぁ?』 『しない。そう決めてるみたい。――――――藤代さんさぁ、近くには誰もいないし、普通に話したら?』 『あのぉ、室瀬さんってぇ、結構イケメンですよねぇ? 本気出せば意外と攻略できそうな気がするんですけどぉ』 無視か。 『まあ、それには心底同感だけど、人のものを奪うのは美徳としない家系で、そう教えられて育ってるからなぁ。あいつはしないよ、きっとね』 この状況に至る根幹を述べれば、どうやら藤代さんが何かに引っかかったらしい。 『…え?』 茫然とした藤代さんの視線が舐めるように 『西脇さんって、彼氏いるの!?』 『知らなかったの?』 これは、結構な期待外れだ。 仲が良いとは思ってなかったけど、女子の園であるカスサポで、まさかそれすらも噂になっていないとか。 どれだけガード固いの、 着てる鎧、分厚すぎ…。 『だ、だってそういう話する間柄じゃないし、ブースに入ったら他の人と恋バナ出来る雰囲気は全然ないし…って、嘘、ほんとに?』 『わざわざ友人が悲しくなるような嘘を吐く趣味は無いよ』 『で、ですよねぇ?』 言葉にすれば、少し気持ちが落ちてしまって、 『結構長いよ。学生時代からだから…、もう六年か』 その年月には、 改めて指折り数えると、あり得ない時間をたった一人に注《つ》ぎ込んでいるよね、咲夜《あいつ》。 『 ちゃんと核心に迫ってきた藤代さんに、正解、と頷きつつ、表情は明るく返せない。 『えっと…、すみませぇん…』 しまったという顔を隠さない藤代さんに息を吐いて首を振り返すのと同時に、こうして、人との会話で何がポイントかをちゃんと考えながら話を次々と構成できる藤代さんに感心する。 この魅力が表に惜しみなく出されていたら、きっといずみ達と同じように、地位を確立するところまで上れる人材になった筈だ。 『――――――咲夜《あいつ》、優先すべき視点から0か100かって生き方をする奴なんだ。その気性は、他では良い感じに活かせても、事が西脇さん案件になるとどうしても前に出られなくて、その場で足踏み。それがずっと続いてる』 『それは、西脇さんに彼氏がいるからって事ですかぁ?』 『そ。彼氏がいるって視点から、彼女は人の女《もの》。だから自分から動くのはゼロ』 『じゃあぁ、もし西脇さんが室瀬さんを好きになったらどうするんですかぁ?』 『それならきっと100になって 『理解出来るような出来ないような…』 呟いて、藤代さんは唇を斜めに眉間を寄せた。 『線引き難しくないですかぁ?』 初めて見る表情だ。 『だって、結局のところ室瀬さんは西脇さんを好きなわけですしぃ、超絶イケメンじゃなくたって、それなりに魅力ある人がチラチラ自分の事見てたら、女なら誰でも気になりますよぉ。例え西脇さんがいくら地味に生きようと頑張ったとしても、やっぱり胸が高鳴ったりるすと思うんですよぉ? その視点から言うと、穿った見方にはなりますけど、イケメンが熱を持って誰かを見つめる事自体が既にちょっかいって気がするじゃないですかぁ』 "イケメンが、熱を持って誰かを見つめる事自体が既にちょっかい" 『それは…』 その評価はつまり、 『馬ぁっ鹿みたい。結局それって、ただ室瀬さんが良い人ぶって逃げてるだけの話じゃない? しかも自分に対して』 藤代さんが、それだけ 『…なるほどね』 こうして、何も結論を求めずに、ただ雰囲気を楽しむ事を目的として俺が紡いできた藤代さんとの時間。 そんな俺のすべてを無視するかのような彼女の言葉は、俺の甘さを粗く殺《そ》いだ。 『…君の眼鏡も、なかなか分厚そうだ』 『え?』 『その口調が、藤代さんにとっての眼鏡なんでしょ? って、俺のはそういう話ね』 裸にしたい。 物理でも、精神的にも、丸裸に。 その眼鏡を取り払った藤代雪を、床に押さえつけて、その目には、俺だけを映させて、 『ええぇ? 何の話ですかぁ、それ』 他の男の事は語らせない。 考えさせない。 奥深くに閉じ込めていた俺の本性が、音を立てて芽吹いたのが判る。 弄ぶように廻していたスプーンに、気づいたけれど止められない。 それを止めた俺の手が、代わりに何を求めるかは明白だから。 立ち上がりかけた藤代さんを、真っ直ぐに見つめる。 『――――――何だと思う?』 じわじわと、自分の内側からどす黒い欲情が上ってくる。 芽吹いたものが血液に広がって、全身が痺れる。 その欲求が、脳を支配しそうになる。 『ぇっとぉ…』 止められない、 『ゆ…』 『ぁの…?』 カチャン。 『!』 持っていたスプーンが音を立てて皿に落ちた事で、俺はハッと我に返った。 目の前には、怯えを滲ませた藤代さんがいて、 『…ッ』 何か、言葉を――――――、 『…――――――馬ぁっ鹿みたい』 漸く、テンションを上げる事で言葉を絞り出せた。 『ああ、でもまあ、鳴りを潜めるように生きている西脇さんを、見た目で堕とした程度の信頼関係で傍に置いて幸せに出来るほど、 馬鹿か、俺は。 呑まれないように制御を覚えてきた筈のこの半年を、すっかり無に返すところだった。 会話がどの要点にあったのか、必死に思い出して何とかそれらしい言葉を告げれば、案の定、藤代さんにはうまく伝わらなかったようで、 『…ん〜、なんか意味わかんないですぅ』 言いながら、彼女は笑顔で席を立つ。 『それじゃあ、今日はこれで失礼しまぁす』 『うん、またね』 危なかった。 本気で、乞いそうになった。 『…雪――――――』 声にすれば、その甘さが薬になる。 けれどいつか、その名前が毒にもなる。 宮池 『 『一つも欠けるなら』 君なんか、 『要らないんだ…』 それでも、いつまでも彼女の背中から目を離せずにいる自分に、自己嫌悪は募るばかりだった。 |