『プ…、プ…、プロポーズッ!?』 デスクに戻ってきた目黒さんがポツリと齎したその情報に、俺の胸がドキリと鳴ったのとほとんど同時に、財津が大きく目を見開いてそう叫んだ。 『え? 嘘、目黒っち、それマジで? 本気で? え、 畳みかけるような事実確認に、ふん、と鼻で笑ったのは真玉橋さんだ。 と言うか財津、 人聞き悪すぎるでしょ。 『まあ、あの二人が付き合っている年数を考えれば時間の問題ではあったな。漸く、 『えええええぇ? 納得しちゃうの? するしかないの? うぅそぉでぇしょぉ〜ぉぉッ?』 椅子の背を抱いて前後に体を揺らしながら足は地団太を踏むという、子供のような振る舞いを器用に披露する財津を他所に、真玉橋さんの『どうなんだ?』という視線を受けて目黒さんは肩をすくめながら応えた。 『本人ソースですよ。食堂で友人と話していたのを聞きました。ところどころ聞き漏らしはあったと思いますけど、主筋はそんな感じです』 『そうか。なら信ぴょう性は高いかな』 ですねぇ。 『あぁ〜あ、 『…あるわけないでしょ』 『わかんないじゃーん、目黒っち、夢ないよぉ』 『 確かに。 尤もな事を口にした真玉橋さんに俺が密かに同意していると、財津が『あッ』と声をあげる。 『待って、もしかしてこの部署《へや》、もしかしなくても閉鎖になる? なっちゃったりする?』 『どうかな。 目黒さんが俺を見て、 『ええええ? どうなの? どうなんの?』 財津も俺を見て、 『…どうなんですかね?』 俺が真玉橋さんを見れば、紡がれたのは終止符の一声。 『――――――彼女が退職でもしない限り、それはないと思うよ』 『ですよね…』 この人は、恐らくは俺以上に、 ―――――― ――――― 年末が近くなるごとに、 『あ、 『…おはよ』 十時過ぎ。 フレックスで出社しようと部屋を出た途端、隣のドアが開いたと思ったらいずみが顔を出してきた。 『やだ、酷い顔ね。想像以上に不細工だわ』 『…』 何を返す気力もない。 『…待ち伏せ?』 『偶然に決まってるじゃない』 『…偶然、ね』 『昨日から待ってたのは確かね』 『なんで…?』 『一緒にご飯を食べようと思って待ってたの。それなのに全然帰ってこないし』 『…電話した?』 『してないわよ。疲れて帰ってきたところに、思いがけない待ち伏せってのがいいんじゃない』 『…理解不能』 『まったく、男共は揃いも揃って』 腕組をして口を尖らせるいずみが示《い》う男共とは――――――、 『―――――― いずみの背後から眉尻を下げて覗き込んできたのは、佑《たすく》の母――――――つまりは俺の伯母さんで、 『朝食は? よかったら』 『いえ、もう時間もないので――――――』 続く言葉を想定して遮った俺の答えに、 『…そう』 伯母さんは弱く笑い、同時にいずみが片眉をピクリと上げる。 『いいわ、 『え?』 『一分でいいから待ってなさい! 動かないのよ! いいわね!?』 ストッパーをドアの下に挟み、猛ダッシュで中に戻っていたいずみの背中を茫然と見送っていると、その場に残されたもう一人の存在が声をかけてくる。 『…佑《たすく》も、あの人も――――――最近は一緒に食事をとる暇もなくて、凄く心配しているの』 やっぱり、男共には伯父さんも含まれていたのか。 『…仕方ないと思いますよ。今は新規事業に向けて大詰めのタイミングですから』 『そう…ね。ええ、…でも、わかってはいても、心配はするのよ』 朝っぱらから、なんでこんな憂鬱なやり取りを努めなければならないのか、こういう時はいずみの突破力が恨めしく思う。 『そうですよね。でも、佑《たすく》にはいずみがいるし、俺も、無理をしないように会社では目を光らせて――――――』 『 ――――――……え? ゆっくりと、視線を持ち上げて伯母さんを見れば、おずおずと動く眼差しにぶつかって、 『…』 あまりにも、自分が知っている"母親"と違い過ぎる存在感に意識が回りそうになる。 『あ、りがとう、ござい、ます…』 どうにか言葉を紡いで逃げるように目を逸らせば、昔から知る、吐息のように漏れる微かな笑みの音を視界の端に聞いた。 見なくても、想像がつく伯母さんの困惑顔は、胸がざわつくからずっと苦手で、 『お待たせ!』 どうしようもなかった空気の中に、遠慮なく飛び込んできたのはいずみだった。 『はいこれ』 目の前に差し出しされた赤と白のツートーン、二段のランチボックスの横で、その高飛車さをわざと貼り付けた笑顔が華やいでいる。 『私と小母様の手作り弁当よ! 嬉しいでしょう、嬉しいわよね、 『…佑《たすく》や伯父さんに恨まれそうでちょっと嫌かな』 『クリスマス当日はパーティで帰りが遅いって言うから、家族での食事会をイブにずらしたのに結局は遅くなる遅くなるで午前様。一年にそう何度もおねだりをしない健気な女性《パートナー》との約束を簡単に後回しにするような男共には、コレ、まだ食べさせていないのよ。だからもし見られてもその中身が私たちの手作りだなんてわからないわ。ね、小母様』 『ふふ、そうねぇ』 伯母さんの視線が、チラリと佑《たすく》が住む更に隣の部屋のドアに向けられる。 この態度、つまりは、伯母さんの伴侶《パートナー》である伯父さんもあそこにいるわけだ。 昨夜は敷居を跨がせずに、女子の聖域から締め出したという事…。 『いずみちゃんとたくさん作ったのよ。ぜひ持って行って? 『そうそう。小母さまと私からの真心よ。有難ぁく持って行って、ありがたぁく食べればいいの』 『…はい。ありがたく、いただきます』 いつもの笑顔を貼り付けて応えつつ、この弁当の見返りが果たして何になるのか、身に凍みるような恐ろしさを感じたけれど、この心情を読まれれば状況はますます面倒になるから、いずみからランチボックスへとそっと目を反らす事で胡麻化した。 『それからこれ!』 そんな俺に、いずみはこれでもかという勢いで、もう片方の手で掌サイズの小さな箱を差し出してくる。 持ち手がついて光沢があるその白い箱には、このあたりで有名な老舗ケーキ屋さんの名前が入っていて、 『ガトーショコラ。今年こそ、彼《・》女《・》を連れ込んでクリスマスするかもねって期待しておすそ分け程度に準備してたんだけど、結局"進展無し"みたいだし、むしろ後退してるし』 それが誰の事を想定して綴られているのか、分かっては、いる。 『…まあ、最近はタイミングが合わなかったからね』 『…へえ? あらそう? それだけ?』 『…』 何となく、藤代さんに対して俺の腰が引き気味になっているいう事を、いずみに勘付かれればかなり五月蠅い。 けれどそれよりも、社食まで出向く時間すら惜しんで仕事をこなしているなんて、それを気取られたならなおさら五月蠅い。 ワーカホリックとは違う、仕事をこなす事にある種のエクスタシーを得ている感覚で、没頭する事が万全だと感じられる時期は俺にとってシーズンイベントみたいなものだけど、オンオフをスイッチのように切り替えるいずみにとっては、昼休みを仕事に削る事自体が違法行為に匹敵する。 『それ、藤代さんも好きなんですって』 『え?』 不意打ちのように振られて、俺は思わず息を止めた。 『言っておくけど、時々構ってたら適当なタイミングで恋人に出来るなんて、そんな甘い考えじゃあ、あの藤代さんの心を掴むのは、絶対ぜぇぇぇ…ったいに、無理だと思うわよ?』 『…』 『そもそもあなた、彼女の彼氏候補としてリストにすら入ってない事、自覚ある?』 『あらそうなの?』 『もしかしたら視界にすら入ってないかも』 『まあ、それは苦戦してるわね』 ふふ、と小さく笑う伯母さんを前に、居た堪れない気持ちになった。 『…別に、そういうんじゃありません』 いずみが、眉間に小さく皺を寄せたのには気付いたけれど、言葉に出来ない感情を慰める為に出始めた言葉は止められない。 『可愛い猫が歩いているのを見かけたら、餌を手に呼んでみたくなるってあるでしょう? それと一緒なんです』 『そう…』と、困ったように笑う伯母さんと、呆れ顔の究極まで目を据わらせたいずみから、俺は逃げるようにして歩きだした。 会社に着いたのは正午前。 途中で買い物に寄ったおかげで、予定していた出社時間に三十分程遅れている。 『お、 『…おはよう』 『ねぇねぇ、受付の子達、見てきたぁ? 今日はサンタコスしてるよ、サンタコス』 『駐車場から真っ直ぐ来たから見てないよ』 『えええ、もったいないよ〜ぅ。今日だけの限定だよ?』 『お腹空いて、表行く体力ゼロ』 『あはは。腹減りご愁傷様。けど見逃し残念。それを見回る総務部長がさ、何より面白いんだって。あの人の頭にもサンタ帽』 『…それは見たくないな』 キーボードをたたく手を止めないまま話しかけてくる財津を相手しつつ、持っていた重たいランチボックスをデスクに置く。 室内にいたのは財津だけで、壁のボードを見れば、他三人には会議中・外出中のフラグが立っていた。 『財津、それ明後日の概要?』 『うんそう、あと三十分くらいね』 『それにこっちのプレゼンファイル合わせる予定だから、送信したら声かけて』 『OK〜。 『そうさせてもらう』 椅子に座って一息つけば、ここ十日間ほどの激務の疲れが全然とれていない事に気が付いた。 いずみに酷い顔だと言われるだけはあるのかも知れない。 持たされたランチボックスの蓋をそれなりの感謝の気持ちで開けて――――――、 『…マジか』 一瞬、現実逃避したくなるような量に思わず息を吐く。 時間が経つごとに重さを実感して、もしかしたらと想像はしていたけれど、二段の正方形の中に色とりどりのおかずがたっぷりと隙間なく詰め込まれていて、あの短時間でよくここまで捌ききれたと感心すら覚えた。 …もしかしたら、最初から準備していた? 『…財津、これ、半分食べて』 嘆きに近い要素で紡いだ言葉は小さかったけれど、どうやら財津の耳には届いたらしく、その人懐こい視線が、今日初めて俺の方に向いた。 『え、いいの? 彼女ちゃんの手作りとかじゃないの?』 『イトコに貰った』 『ええええ、それ凄いよぉ。ほんとに遠慮なく食べちゃうよ?』 『食って。絶対に食べきれない、この量。何人分かな、ほんとに』 『わーい、ラッキーぃ。ふふふ、ちゃちゃっとちゃららっと頑張ろうっと』 鼻歌交じりに、意気揚々と再びPCへと目を戻した財津は、けれど耳で聞く口調の真逆をいく真剣さでキーを叩き始める。 印象の軽薄さとは表裏、その頭脳は、競合他社とのプレゼンで財津がバックアップについた企画は負け知らずという戦歴が語り草となるほど、とにかく論理的《ロジカル》な構図を書かせたら右に出る人がいないと言わしめるほどのものなのに、正直謎の存在。 普段の騒がしさを見ていると、実は噂の方が嘘なのかもと思ってしまう事が多かったりする。 けれど実際、この部署が財津の頭脳に助けられる事は日常だ。 特にこの二週間は、次から次へと押し寄せてくる資料作成や、時間単位で変動する事が増えた いずみがこうして量を持たせてくれたのは、そんな部署の現状を知っていて、差し入れも兼ねているからなのかも知れない。 『財津、お茶とコーヒーどっちがいい?』 『お茶ぁ』 『ちょっと行ってくる』 俺は、なけなしの気力を振り絞って底の見えていた体力に鞭を打ち、どうにか席を立った。 ――――――あ、藤代さんだ。 社食の中央、比較的席が空いている辺りで、ドンブリを乗せたトレイを手に、キョロキョロと歩いているのは間違いなく藤代さんで、 『またコンボしてる』 ランチメニューが、しかも男でも一息つけるほどのボリュームがある丼物に、どう見ても別のオプションの器が添えられている。 全体的にコンパクトに見えるあの体の、一体どこに、あれだけの量が収まるのか。 それを考えると、俺の中から自然と笑いが引き出された。 近くでその食べっぷりを見ている時も感心したけれど、こうして客観的に見ても、あのバランスは本当に謎だ。 小柄だけど、胸のボリュームはたっぷりしてるよな。 本人にもその自覚はあって、しかもコンプレックスではなく、自分の魅力《チャーム》だという捉え方だと思う。 …あ、俺に気づいた。 大抵は、俺の方が見つけるのが早くて、そしてその数秒後に、藤代さんが俺に気づくのがパターンだ。 俺を目にいれた途端、見続けているからこそ気づけるほんの一瞬だけ、必ず動きが止まるからすぐわかる。 距離があるからか、いつもなら愛想笑いで挨拶をする彼女も、今日は見なかったことにして視線を逸らしていった。 その割には、席に着いて、同僚と何かを話ししながらも、全身でこっちを意識して、かつ警戒しているのが判る。 近寄ってこないでよ、話しかけてこないでよ。 そんなバレバレな警戒の様子を見せられたら、逆に何をしてやろうかと、そそられて逆効果なんだけどね。 ふと、別売りのお菓子コーナーに目がいって、 『…今日はクリスマスだからか』 ご自由にどうぞと書かれた個包装の小さなロールケーキに気づく。 "それ、藤代さんも好きなんですって" そして思い出したガトーショコラの存在。 『…』 腕時計を見れば、まだ十二時を過ぎたばかりだ。 『社内当日便の締めは…十四時――――――だったっけ?』 次に会った時、どんな反応を見せてくるのか、想像しただけで、疲れ切っていた筈の体がムズムズと震えていた。 "どうもありがとうございます! いただきます!" その文字からは、愛嬌なんて微塵も感じられない。 これを打ちながらきっと、時々俺に向けるあの胡散臭いものを見るような眼差しをして、そして周りを気にして内心は怒りに震えていたんだろうと思うと、思わず頬が緩んでしまった。 『あれぇ、なんかニヤニヤして、どうしたの、 『ちょっとね、デザートを食べようと思って』 どんな顔してケーキを受け取ったのか、想像しか出来ないのが残念だ。 俺も、箱から取り出してティッシュに包んで取っておいたガトーショコラを手元に広げた。 『――――――あ、いいなぁ、ガトーショコラだぁ!』 案の定、財津が目を輝かせてきたけれど、 『これはあげない』 『ちえッ』 俺の応えを予想していたのか、特に食い下がる事もなく撤退してPCに冷ました目を戻していく。 『…』 そう言えば未確認だった。 送った箱の中には、ちゃんとフォークは入っていたのか。 藤代さんからのお礼に返信する気はなかったから、当然、何で食べたかなんて話かける事はしない。 引き出しの中から、いつの間にか溜まっていた割り箸を取りだしてケーキを刺し割り、かなり大き目のサイズで口の中に放りこめば、 甘さの中のほろ苦さ。 カリカリの表面、けれど中身はしっとりと柔らかい。 藤代さんに似ているなと、食べながら漠然と思い、 ――――――そう考えた自分に戸惑いながらも、やっぱりまた、顔がだらしなく伸びるのを止められない。 『だからさぁ、顔がニヤけてるんだって、 チラ見してきた財津に指摘されて、咳払いを一つ。 真顔に繕って、誤魔化すように次の一口でビターな甘さを味わっていると、財津が珍しく投げ捨てた筈の会話の続きを求めてきた。 『どうせ藤代ちゃん絡みなんでしょぉ? いつものノリで軽く始めちゃえばいいじゃーん。噂のあった堂元さんは結婚して片付いて、今は彼女、フリーなわけだしぃ?』 『…同じ会社なんだから、そういうワケにはいかないだろ?』 『ええええ? それって建前ぇ? それとも真面目?』 『…だから、別にそういうんじゃないだって』 『変なのぉ』 ――――――解ってる。 自分の中に、はっきりとした分裂が見える。 これ以上は近づきたくない気持ちと、 もっと近づいて手に入れたい気持ち――――――。 ――――――ユキ…。 初めて会った時、連れ帰りたいと直感的に思って、 ここは寮だし、環境を整える事も出来ないし、ああでも、自分だけに特別に反応してくれる態度は可愛くて、 "居ついたな" 笑った ユキが、自ら選んで気まぐれに傍にくる。 そうしたら俺は、その時に全力で構えばいい。 でも去るなら、俺に責任は生じない。 歪んだ思考。 自分主義。 そんな自分と向き合ったのは、ユキが死んでしまうかもと 一心に向けられる、判り易いユキからの 『いっそ猫なら、簡単だったんだけどね』 頭の中のセリフだったはずなのに、どうやら口にしてしまっていたらしい。 『猫にしちゃえばいいじゃーん。良いグッズあるよ? リンク送ろうか?』 そう言ったと同時にURLがチャットボックス内に出てきて、開け開けと点滅している。 『…ったく…、――――――…ぅ』 クリックした先に表示された、白の猫耳がちょっと、 『ね? 可愛いでしょ?』 『…まあ、猫だしな』 『もぉ、素直じゃないなぁ。絶対に藤代ちゃんはバチっとハマるでしょ』 断言した財津に、力いっぱい頷いて同意しそうになった事は、とりあえず胸にしまっておこう。 |