カレンダー上の一般的なイベント日は、実は驚くほど企業間を繋ぐパーティが多い。 大々的なものからそうでないものまで、それを名目に一定の趣旨を以って集まって情報交換をする格好の場所となっていて、特に今日のクリスマスは、それなりの役職がついている人間にとっては、アタリを付けた各所への練り歩きの夜だ。 俺は企業の秘書サークル的な交流会《しょくじかい》が一件、それと土方の親族としてのパーティがホテルの大ホールで一件。 …これは多分、見合い的なものが兼ねられている気配はぷんぷんしている。 佑《たすく》曰く、 "親父はね、お前を政略的な駒にするつもりはないけれど、でも縁があれば利益がある女性と――――――なんて打算も最初から捨ててはいないって事だよ" まあ、綺麗事を並べられるよりは許容し易いし、特に反発もないけれど。 カードケースに入れていた名刺がそろそろ切れそうになった頃、俺は一息吐くためにトイレ帰りの足をそのままホテルのロビーへと足を向けた。 広さが十分に取られたそのロビーは一人掛けソファの一つ一つも大きくて、一人の時間を堪能するにはうってつけの休憩場所だ。 所々にある太い柱や背丈のある観葉植物で、人の目を避けるポジショニングも選び放題。 ちょうど柱を背にして外を眺める位置取りの席が空いていたから、一直線にそこを目指して腰を下ろす。 じわじわと、地の底に力が吸い取られるみたいに脱力した。 少しお酒も入っているからか、心地良さがとにかく身に沁みる。 万が一に備えて十五分後にアラームをセットして、目を閉じて――――――、 『なぜ僕に訊くんです? 直接ユキに訊くべきじゃないですか?』 激昂を潜ませている、そんな熱を感じられる声が耳に届いたのは、割とすぐの事だった。 目を開けて、まだ覚醒していない思考のまま、ぼんやりと目の前の景色を見る。 ガラスの向こうにはクリスマスのイルミネーションが色とりどりのランダムなドット柄。 そしてそれに重なるようにして映るのは、俺の背中にあるロビーの風景。 『…堂元さん?』 長身のシルエットは、見間違う筈もない。 パーティの開始前に人事部長のお供で来たと言って挨拶を交わした堂元克彦。 一緒にいる女性は、ぱっと見のロングタイト姿で、社長と一緒に来ていた秘書の春日井さんかと思ったけれど、明らかに服の色が違う事を思い出し、打ち消す。 『まったく、いちいちそんな目くじらを立てなくもいいじゃない。ちょっと会ったついでに訊いただけだわ』 『何年も会っていない娘の話を、ついでの話題だと言うんですか?』 華やかな赤。 アップした髪に煌びやかな髪飾り。 『…勘弁して頂戴。あなたもビジネスカードを持った社会人なのでしょう? こんな社交の場で、こんな話』 『伯母さん』 『場所を弁えなさい』 ――――――思い出した。 業界トップの広告代理店、何年か前に、そこで女性初の役員入りを果たして名を馳せた、 『いい加減、私に母親としての役割を期待するのは諦めて欲しいものだわ。当の本人であるあの子は、私とあの人の生き様をちゃんと理解してくれているわよ? あなたもいい加減、大人になったらどうなの?』 確か、フジシロ専務取締役――――――、 藤《・》代《・》…? 『雪は理解したわけじゃない。誰よりも早く、僕や父と母が匙を投げるよりもずっと早く、親であるあなた達を捨てた、それだけだ』 『大袈裟ね』 彼女の吐いた大きな溜息が、俺の耳まではっきりと届く。 『まあいいわ。あの子もいい年齢でしょう? そろそろ見合い相手でも見繕ってあげようかと考えていたところよ。お正月には顔を出すからって伝えておいて』 『…ッ』 今度は、堂元さんの震える呼吸だった。 『…まだ、気づいていなかったんですか?』 『何?』 『…雪はもう、あなた方のマンションにはいません』 『なんですって?』 『短大を卒業したと同時に、あの部屋を出ました』 ここからだと、藤代専務がどんな顔をしているのかは見る事は出来ず、 『――――――あの子ったら、なんでそんな馬鹿な事を。そのまま住んでいても一人暮らしのようなものなんだし、家賃も無駄に払わずに済んだのに』 『…きっとあなたには、その理由は一生わからない』 堂元さんの、俯き加減で絞り出したセリフが、俺の胸を鷲掴む。 『――――――そうね。あなたの言う通り、私には無理なのよ、母親の役なんて』 『伯母さん…』 『あの人もそう。父親は無理よ』 『…でもあなたと伯父さんはちゃんと続いている』 『それはそれ。だってあの人と私はパートナー同士だもの。あの人は法に携わる人だから、立場上決して不倫なんて出来ないし、私もスキャンダルはごめんだわ。結局、相手をするならお互いしかいない』 『やめてください、そんな下世話な』 『いやねぇ、あなたも潔癖性? 父親そっくり。あれも私の弟かと驚いたけれど、あなたも甥なんだと思うと、なんだか笑えちゃうわ。血筋って不思議よね』 この自由さと豪胆さが、巨大な会社で上り続けるための秘訣になったんだろうとは確かに思う。 他人には理解出来ないこの余力を、翼にして押し上げる力へと変えていく人を、俺は周りに何人も見ているから。 けれどその背景に、蹲っていた小さな藤代さんがいたのなら、 『秘書が呼んでるわ。もう行かなくちゃ』 『…雪の番号も、もう昔とは違います』 『気づかなかったわ。教えてくれてありがとう、克彦君』 藤代専務の後ろ姿を睨むように見送っていた堂元さんが、 『――――――悪趣味ですね』 柱の陰から姿を晒した俺に視線を合わせて、吐息のように告げたのはその一言。 それからしばらく、お互いに無言が続き、 『そんな同情一杯の眼差しを、雪に向けるのは許さない』 『…すみません。でも、俺にはわかるから』 激情を秘めた堂元さんの目が、俺を射るように見つめてくる。 『俺には、解ります』 誰かが帰ってくるかも知れないと期待する部屋と、 他には誰も帰ってこないと期待しなくてもいい部屋の違いが。 『そうだね。きっと僕よりも、君の方が雪の気持ちを理解できる瞬間はあるのかもしれない』 それを紡ぐ堂元さんは、恐らくは佑《たすく》がソースとなって、俺の過去を多少は知っているんだと理解した。 『だけどどうしてかな。どうしても僕には、君が雪に相応しいとは思えない』 『…それはきっと、当っています。自分でも呆れるくらい、男としても人としても、今の俺がかなり中途半端だという自覚は、誰よりもあるつもりです』 傷のなめ合い程に愚かな行為はないと、堂元さんはそう考えながら、それでもずっと切り切れずに、俺と藤代さんの関係性を見極めていたんだと思う。 俺が違和感を思うほどに"我関せず"と見える態度だったのは、きっとそれが根底にあった筈だ。 『――――――堂元さん。…雪さんの、近くに行ってみてもいいですか?』 今の俺が、保護者代わりの堂元さんに示せる、これが精一杯の誠意。 でも、期待を以って自分から誰かに近づこうなんていう好奇心は、後にも先にも、この時だけのものかも知れなくて、 だとしたらどうしたって、堂元さん相手になりふり構っている暇はない。 『…妻に、相談してみるよ』 『――――――え?』 規模の違い過ぎた返答に、理解が及ばず聞き返してしまっていた俺に向かって、眉間を狭めながら堂元さんが告げる。 『この半年の攻防戦の結果を見る限り、手を繋ぐ半径に入る事すら、数年はかかりそうだから』 『…えっと…』 反論――――――無し。 『…よろしく、お願いします』 そうしてセッティングされたのが、大晦日の夜の事だった。 年の瀬、大晦日の夜。 綿飴みたいなキュートな花嫁さんだったよ――――――と。 結婚式に参列した佑《たすく》がふと漏らしていた感想の通り、 なるほど…。 訪れた堂元家で初めて見た奥さんの梢さんは、キュートという単語がとても良く似合う女性だった。 確か堂元さんより一つ下。 つまり俺より一つ上。 もし制服着て会社にいても、社会人一年生って感じの人だな――――――。 そんな事を考えながら炬燵の前で跪いてご挨拶。 『はじめまして、宮池です。今日はすみません』 『わあ、確かに王子様かも。はじめまして。堂元の妻の梢です。いつも主人がお世話になっております』 『あ、いえ、こちらこそ…』 この人が人妻とか、危険なシチュエーションのAV見てる気になる。 そんな俺の邪さをシャットアウトするように、 『あの、もし雪ちゃんと付き合ったとして、浮気はする予定ですか?』 『…――――――はい?』 何かの間違いかと思って彼女の隣に座る堂元さんを見たけれど、どうやら本気の質問らしい。 『…えっと、浮気は、する予定はありません、けど、お互い、何があるかはわからないわけですし、最初からその予定を立てるって事はあまりないと思うんですが…』 で、合ってる…かな。 『なら、競馬はどうですか? ご趣味だって聞きましたけど』 これは…奥さん的にギャンブルする男は藤代さんには不合格という事だろうか。 『…友人の馬が出る時は競馬場に行きますが、馬券は付き合い程度です』 こんな感じかな。 『うちの主人と雪ちゃん、凄く仲がいいんですよ? あたしも時々妬いちゃうくらい』 ああ、これなら、 『大丈夫ですよ。自分にも親身に構ってくる姉のような馴染みがいますから、その辺りは理解できる筈です』 『…雪ちゃんに、優しくしてくれますか?』 優しく――――――、 『――――――はい』 何となく、藤代さんが俺の腕の中にいる事を想像してしまい、応えるのと同時に口元が緩む。 『…最後だけ及第点か…』 『え?』 何かを呟かれた気がしたけれど、視線があった奥さんはふんわりと笑う。 『宮池さん、ビールにしますか? チューハイもありますけど』 『あ、ビール…で』 『克彦さんもビール?』 『うん』 『お待ちくださいね』 キッチンへと歩いて行く奥さんを見送って、俺は堂元さんを見た。 『なんか、…もしかして俺、奥さんに嫌われちゃいました?』 『嫌われる要素に心当たりが?』 『…さっきの質問の答え、正解じゃなかった、とか…?』 湧き上がる不安に、声が小さくなってしまう。 そこへ奥さんがトレーにロングサイズの缶ビールを二本乗せてやってきた。 『はーい、ビールどうぞぉ。宮池さん、食べ物、好き嫌いはありますか?』 『あ、いえ、特には』 『梢、雪から返事あった?』 『うん。手土産にお煎餅リクエストしたら、直ぐ来るって』 『そ』 堂元さんの返事を見届けると、奥さんは再びキッチンへ。 『煎餅…奥さんの好物ですか?』 そういうのが好きなら、俺が渡したシフォンケーキは失敗したかも。 『機嫌が悪い時のね』 『…え?』 『今頃、僕と梢の仲を取り持つ為に急いでいるところだと思うよ』 『なるほど…』 幼馴染を思うそんな気持ちで駆け付けて、俺を見た時の藤代さんの心情を想像すると、少し複雑になる。 そんな事を考えながら目を泳がせていると、プシュッと、堂元さんが缶のプルトップを引いた。 『僕の家に君が招待されているという時点で、雪のテリトリーに片足を突っ込んだのと同じだと思うよ』 真っ黒な目が、いっそ挑発的だと表現出来るほどに俺を見ている。 "従兄というだけで、僕が雪の全てに関与はしない。遊びなら、心を掴むのは難しいだろうし、本気なら、生半可な気持ちでは支えきれない。良い意味でも悪い意味でもそういう重みがある存在です" ここから先は、自分で好きなように進めという事か。 |