『はい。ありがとうございます』 乾杯もなく、さっさとビールを飲み始めた堂元さんの、心情の全てはそこにある。 "雪さんの、近くに行ってみてもいいですか?" 文字通り、物理的に近くに来るその切っ掛けは与えたけれど、藤代さんを託すほどに信頼はしていないという現れ。 未来次第では、抹殺されるかも。 半ば本気と冗談で考え、いつもより苦く感じるビールを飲んでいる内に、玄関のチャイムが鳴った。 『はーい、今いきまーす。かっちゃん、ちょっとお鍋みてて〜』 キッチンからの声に、堂元さんが無言で立ち上がる。 パタパタとスリッパが廊下を駆ける音、玄関が開いて、閉まって…。 そして時間差で、室内の温度が下がった感覚を肌で感じた。 『ううう、梢ちゃん、外寒かったよぉ』 『うわ、雪ちゃん手ぇ冷たい。早くおコタ入ってあったまってて』 『うん。あ、これお煎餅。超ハードモードだよ』 『ありがとう〜』 『いらっしゃい、雪』 『克彦君、お邪魔するね』 『ああ』 『かっちゃん、お鍋は?』 『火は止めてきた』 『もう! 雪ちゃん、今おつまみ作ってるから、お酒飲みながら待っててね』 『はーい』 聞くだけで暖かさかを感じてホッと安心するその会話から伝わってきていた明るさが、 『どッ…』 リビングに入って俺を目にした途端、一瞬で消灯する。 入り口でビタッと体の動きを止めた藤代さんが、心の中で一体何を叫んだか、解ったような気がした。 『…こ…こんばんはぁ』 どうにかという具合に絞り出した笑顔だったけれど、やっぱり気を許していた場所だけに、会社にいる時のような完璧な取り繕いは出来ていない。 ツーンが、いつもより甘くて俺の気も緩む。 『こんばんは。藤代さん。一人寂しく年越しする予定だって話したら、堂元さんが誘ってくれてね』 『へぇ…そう、なん、です、ね』 引き攣ってる引き攣ってる。 『お、二人、仲良かったんでしたっけぇ?』 『最近はね』 『最近ですかぁ。そうですかぁ…』 ピクピクと頬が動く様子に、手を伸ばして"よしよし"と撫でてやりたい衝動に駆られて困ってしまった。 近くに来てみたのはいいけれど、距離感が適正に保てるか自信が無くなっていく。 『宮池さぁん、乾杯しましょぉう。あたしぃ、飲み物取ってきますねぇ』 大袈裟に手を叩き、楽しそうな振りでキッチンへと突進していた藤代さんは、 『――――――あれ?』 けれど手ぶらで戻ってきて、無造作にバッグを置いて斜め前に座り込む。 『飲み物は?』 『取り込み中のようなので、遠慮してきました』 ほんの少し気まずそうにしている目の動きと、キッチンから聞こえてくる二人の会話に、独り者には目に余るシーンがあったんだと予想する。 『お酒ならここに幾つかあるよ。さっき奥さんが持ってきてくれた』 俺が席に着く前に、堂元さんの傍のコンパクトなクーラーボックスに足していたのは缶チューハイ。 なのに堂元さんがビールを選んだという事はきっと、これは女子用の筈だ。 『パインに梅、桃、あとはグレープフルーツ…どれがいい?』 『…グレープフルーツで』 眉間が寄る。 状況に対して訝しみが強くなっている。 『あーあ、警戒心丸出し』 指先でその縦線を突いてみたくなったけど、我慢我慢。 『顔に出てるよ、藤代さん?』 言いながら、缶のプルトップを引けば、小気味いい酸の抜ける音がして、噴いた飛沫が指に付いた。 『…ッと、――――――はい』 缶までは汚れなかったからそのまま渡して、 『ありがとうございます…』 『ん』 藤代さんの素直なお礼に、なんとなく気分が良くなって、無意識のまま指を舐めた。 酸っぱ…。 そう言えばグレープフルーツだった。 ビールの味が変わりそうだ。 勢いで舐めたのは失敗したと、辺りを見回してティッシュを探せば、 ――――――え? 顔を真っ赤にした藤代さんが、肩を上下に息を荒くしている。 って言うか、え、ちょっとエロくない? さっき炭酸を勢いよく一気飲みしていたからか、目は潤んで、唇半開きで、そのうえ「はあはあ」と息が短い感じがヤバいんですけど。 これは、俗にいう興奮状態…? 『…』 興奮してるの? なんて正面から訊くわけにもいかないので、何気なくそんな藤代さんの様子を観察していると、とある事に気が付いた。 もしかして――――――、 ようやくクーラーボックスの向こうに見つけたティッシュに手を伸ばせば、静止したタイミングで追いかけてくる藤代さんの視線。 箸を使った時も、お替わりの缶チューハイを渡す時も、意識を取られているのはやっぱり俺の手。 飲んだアルミ缶をパキッとヘコませた時なんか、息を飲んで激しく目を逸らしていた。 く…、やっぱり可愛い。 猫じゃらしで遊ぶユキと被る。 内心は悶えながら、冷静に状況を分析をしていく。 そうだった。 藤代さんはコレで釣れるんだった。 なんか最近は色々あってすっかり忘れてたけど、かなり強い 『藤代さん、次は何にする?』 『はい?』 『そろそろ空《カラ》でしょ?』 『…ああ、じゃあ、梅、ください』 『ん』 酔わせてどうこうしようってわけじゃないけど、とりあえずもっと近に寄るためには、藤代さんの警戒心をもう少し緩める必要がある。 炬燵《こたつ》の中で、両手両指をウォーミングアップ。 『かっちゃん、そっちのピザとって』 『ん? これ?』 『うん』 『はい』 『…ええ…と』 『はい、こず。あーん』 『…あーん』 酔いがきたのか、愛しの奥さんに構い始めた堂元さんはもう、この際、無視。 最近は部長に連れられて夜は出ずっぱりだし、多分いろいろ欲求不満だと思う。 二本目の梅サワーがそろそろ底を突きかけた頃には、藤代さんの頭も揺れ始めていた。 …もともとそんなに強くないのか、それとももしかすると、俺の手の動きを追う事で、酔いがいつもより早く回っているのかも知れない。 多分、押し切るのは今日がいい。 目が覚めて冷静になったら、またいつもの藤代さんが俺に向かって壁を立てかける。 そうなったら、次は酒を飲んだりはしないだろうし、ほんとに、勝負は今日だ。 今日で、どこまで近づけるか。 せめて仲良くするって言質だけでも欲しいところだよな。 『次は何飲む?』 声をかけると、視線がゆっくりと動いて俺を捉えた。 困ったような、照れたような、――――――俺じゃなくて、手に、なんだけど、 『桃でいいの? 雪ちゃん』 名前を呼んでみた。 どう反応するか。 『あ――――――そうれすねぇ。桃れお願いします』 無反応。 …っていうか、呂律回ってないんですけど。 『どうぞ?』 ピンク色の缶の、これもプルトップを開けて差し出せば、 『ありがとうおじゃいます』 うっとりと俺の手を見ながらのお礼。 やばい。 すげく胸がドキドキするわ、これ。 しかもうっかり反応しそうになる。 自分にこんな性癖があった事に驚きだったけど、ここは素直に、何プレイに入るのか後で確認しよう。 『あれぇ? 桃の味にゃにょに、ミカンの香りぃ』 流れでむき始めたミカンの香りに、食べたいと言っていた当の本人がすっかりそれを忘れたテイで反応してきた。 両手で包むようにしてミカンをむく俺の手を、藤代さんがジッと見つめてくる。 『王子、上手れすねぇ』 …王子呼び。 藤代さん、完全に酔ったね。 『――――――そう?』 だけど梢さんのミカンはテーブルの上でお花になっていて、それと比べるのも首を傾げたくなる俺の手の動きに、藤代さんはやっぱり釘付けだ。 『スジもとった方が良い?』 『栄養あるんでしゅよ?』 何の演技も、媚も無い、ただただ素直な言葉に、全身から欲求が湧いて出る。 『雪《・》はそのまま食べる派なんだ。――――――はい』 『…え?』 俺が目の前にぶら下げたミカンの房に、テーブルにうつ伏せ加減でこちらを見ていた藤代さんは、ゆっくりと体を起こす間も、そしても今も、ポカンと不思議そうな表情で静止している。 ――――――ああ、懐かしい無防備さ。 俺だけが世界の全てだったユキを思い出す。 そして、 『…ユキ――――――』 声にして呼んだ時に、ピクリと応えた藤代さんの存在がもっと確かなものに変わる。 俺に向けられる眼差しの、その種類を知っている。 期待と不安――――――でも俺にはあって彼女にはないもの、 『雪――――――…』 境遇が似ているだろう俺達が、似ているようで、似ていないところ――――――…。 それが何か、見極めたいと欲する俺が、ここにいる。 けれどそれに沿う事が出来るかは分からないから、何も気づかないまま、ただ流されて腕に中に落ちてくればいいのにと、都合よく望む自分――――――。 『あーんして?』 俺の誘いに、藤代さんの、――――――雪の唇が上下に開かれる。 覗く舌先の赤、僅かに見えた白、そこに呑み込まれるミカンの橙、 『…』 痺れのような誘惑が、衝動を突き動かす。 『…んッ』 下の歯にミカンをわざと押しつぶせば、驚いた雪は反射的に仰け反った。 と同時に、人差し指と中指が温かい口内に包まれる。 あ、やばい、勃つ、これ。 『ごめッ、なさ』 また、雪の白い肌が頬から首筋まで赤く染まった。 この赤面症状の自覚が本人にはちゃんとあるのか、もし無かったとしたら、今までどれだけ周囲を悶えさせてきたんだ。 そしてこれまでに、一体何人の男がこの顔を組み敷いてベッドの上で見てきたのか。 『おいしかった?』 支配欲と、独占欲に火が点いた。 未体験だったその感覚の爆ぜる音は、思ったよりも静かだった。 『…ああ、ほんとに美味しいミカンだね』 少し尖らせた唇で、わざと音を立てながらミカンの汁を自らの指に啜れば、雪は更に口をパクパクとさせて額まで真っ赤に染まる。 『な…、な…、な…』 プルプルと震える雪の姿に、俺は一ミリの隙間もなく心に決めていた。 セックスの有無じゃない。 ただ一緒にいたという事実だけあればいい。 明日以降、再び距離を空けられないように、絶対に朝まで放さない――――――と。 その決意を密かに目線でだけでも伝えようと堂元さんを見れば、いつの間にか、梢さんの肩を借りて寝落ちしていた。 このまま連れ帰っても大丈夫…だよな? 大人同士だからそこまでは干渉しないって言ってたし、それは男女という事を踏まえた上での発言だろうし…。 ――――――よし。 『…奥さん。堂元さんも眠ってしまったようですし、俺達、今日はもう失礼しようかと思います』 『え?』 梢さんが声を上げるのと同時に、堂元さんの睫毛が微かに瞬いた。 "起きてる"のか、 それとも"起きた"のか。 『でもまだ年越しまで一時間ありますよ? 日付が変わる前にはかっちゃんも起こしてって言ってたから…』 『いえ。話の流れで大晦日にお邪魔してしまいましたけど、ご結婚されて初めての年越しですよね。無粋な真似をしてるかなってやっぱり気になっていたので、今日はもうここで帰ります』 あ、眉が動いた。 『じゃあかっちゃん起こしますねぇ』 『いえ、本当にこのまま』 『…そう?』 困ったように眉尻を下げた梢さんに、俺はにっこりと笑って返す。 『色々ごちそうさまでした。とても美味しかったです』 言いながら目の前を片付け始めた俺に、梢さんが慌てた様子で首を振った。 『大丈夫ですから、そのままで』 『そうですか? では――――――それじゃあ行こっか、雪』 『え?』 俺に腕を引かれて立ち上がった雪は、 『え? え? ちょ、待っ、王子!?』 『雪、カバン』 『え? あ、えっと』 酔いは醒めたように振る舞いながらも、やっぱり判断力に欠けていて、言われた通りバッグを掴んでいる。 『あ、奥さんが動いたら堂元さん起きてしまいますよ。そのままで。オートロックでしたよね?』 『ええと、すみません』 梢さんも、俺の強引さに何か思うところがあったのか、急に肩の力を抜いて苦笑しながら頷いた。 『では座ったまま、ここで失礼しますね。――――――また会えるのを、楽しみにしています。宮池さん』 それが良好な再会になるのか、険悪なものになるのかは、これからの俺の立ち回り次第。 『はい。良いお年を。堂元さんにもよろしく』 俺もしっかりと頷いて返し、繋ぎなおした雪の手を引いたまま、外を目指して歩き出した。 |