『ちょっと、ちょっと待って』 中途半端に羽織っていたコートを整えながら、雪は俺と繋いだ手をぶんぶんと振り回してくる。 指を絡めて強く握っているから、そう簡単には外れないけど。 『あのぉ、俺達ってどういう事ですか! あたしは帰る気なかったんですけどぉ?』 『あのね、あの二人、夫婦になって初めての年越しでしょ? 真面目な堂元さんが珍しくお酒で甘えモードに入ってたみたいだし、イチャイチャするのを邪魔する事もないかなって』 『え?』 まだ通常モードじゃないのか、それとも、そっち方面の話にただ疎いだけなのか、雪はきょとんと首を傾げる。 『堂元さんも男だし、年越ししながらの初乗りとか、結構楽しみにしてると思うよ。そういうの実は好きそうだよね、あの人』 『は?』 これでもまだ駄目らしい。 けれど、これからセックスするんでしょ、なんて、従兄についてあまり明言したくない。 俺だって、佑《たすく》といずみの事を、そんな風にあからさまに言われるのはごめんだ。 『姫はじめ、ならわかる?』 まあ、意味は同じなんだけど。 『ひ!?』 また、ぼんやりとした街灯しか頼れない薄暗い道路でもわかるくらいに、雪の顔が赤くなった。 この顔が、クセになりそうなほど可愛い。 『というわけで、雪ちゃん。これから飲み直そうか』 『やですよぉ。あたしは帰りますぅ、急いで帰ってめくるめく世界の描写を――――――』 何を考えたのか、急に鼻息を荒くし始めた雪の言葉を不思議に思いながらも、 『んん〜、亜希の店でカウントダウンパーティやってるんだけどなぁ。雪が行けないなんて残念だなぁ』 『えっ!?』 はい、美味しい料理《つまみ》で一本釣り。 俺を見上げてくる雪の目は、さっきまでと打って変わって好奇心でキラキラと輝いている。 ――――――ちょっと、ちょろ過ぎない? 繋いでいる雪の手から、強張っていた分の力が抜けたのを感じた。 むしろ、こっそり輪郭を確かめているような動きになっている。 懐に入るまでは大変でも、入ってしまえば誰にでもこんな風に懐くって事なのか。 『…』 黒い靄が、思考に蔓延ってくる――――――…。 "本日貸し切り"の看板に守備されている亜希のレストランに辿り着いたのは年が変わる十分前。 顔見知りのスタッフに笑顔で中に通され、キョロキョロと忙しなく瞳を動かす雪の手を引きながら奥へと進み、毎年恒例の景色を見渡す。 テーブル毎に、亜希の広い交友関係の基点が出来上がっているのはいつものこと。 手前は毎年顔ぶれが変わるから業者関連で、目を向けた一番奥のテーブルに陣取っているのは大学の友人達の集まりだ。 『 立ち上がって手を振ったのはなっちゃんで、俺の隣にいる雪を見た途端、顔が一気に華やいでいる。 興奮で声も高くなったところで、その後ろに立っていた旦那の巽にブレーキをかけられていた。 『行こ、雪』 『ぅん…――――――ぅげ』 俺に手を引かれるまま歩き出した雪は、そんな見た目を裏切るイガイガな声を上げて急に足を止めた。 『どうしたの?』 『いる…』 それはもう、いずみが物陰にゴキブリでも見つけた時と似たような表情で、 『いるって――――――…』 視線を追えば、そこにいるのは亜希に肩を叩かれながらロックグラスを仰いでいる 『…もしかして、 眼鏡の向こうにある隠された綺麗な顔立ちにはどうやら気づいているらしいのに、それでもこういう反応をする女子は珍しい。 『好きとか嫌いとか行きつく前に、何となく近づきたくない』 『…ふうん』 移動の間に酔いはすっかり醒めたのかと思っていたけれど、尖らせた唇の形に、まだ自然な奔放さが窺える。 『美味しそ』 『え?』 好きとか可愛いとか考える以前に、ただキスをしてみたいと思える唇、結構貴重だよね。 『――――――そんな風に言わないで、雪。多分向こうも雪に直接は話しかけてこないと思うし』 『まあ、そうだと思いますけどぉ』 『雪ちゃん! いらっしゃい。よく来てくれたね』 やってきた俺達を最初に歓迎したのは亜希で、 『お邪魔しちゃいましたぁ』 『あれぇ? 雪ちゃんもしかして、ちょっと酔っぱらってる?』 『そんな事ないですよぉ』 『あはは、酔ってるって。 『同僚ん家《ち》』 『へえ? ――――――あ、雪ちゃん。こっちね、オレの奥さん。七緒っていうの。仲良くしてね』 『はじめまして。雪さん。いつもここに 『いえ、一緒に来てるわけじゃないんです! 来たらいつもいるんですよね、この人』 『あら』 『でもあたしも、七緒さんとお話出来て嬉しいです』 『ふふ――――――ほんと、難易度高そう。亜希君の言う通りだね』 言いながら俺に向けた顔は、なんだか楽しそうな笑顔だね、七緒ちゃん。 これは間違いなく、夫婦二人で"雪に相手にされてない俺"の噂、してたでしょ、絶対。 『七ずるい! 私も私も! くうう、雪ちゃんかぁ。雪ちゃん、うん、雪ちゃんいいね! 色白い! 顔ちっちゃい! 超可愛い! 何飲む? これ?』 なっちゃんが手に持っているのはショットグラス。 中身の正体を探し見るとテーブルにはテキーラのボトルがあって、 『なっちゃん、それ、雪には強すぎる』 『夏芽、少し落ち着きなさい』 俺の言葉と同時に巽の手がなっちゃんの頭に置かれた。 『まずは自己紹介からゆっくりね』 『…はあい』 そんな光景に、亜希が声を上げて笑った。 『あはは、巽、なっちゃんの手綱よろしく。――――――お、カウントダウン三分前だ! 『OK』 カウンターバーを示しつつ駆け出した亜希に二つ返事をして、七緒ちゃんとなっちゃんと楽しそうに会話をし始めていた雪を見れば、内心実は困っているとか、そんな様子はまったく見えなくて、 ――――――とりあえず、明日の朝まで確保したい作戦の、初手としては成功したかな? 後はどうやって、自然な流れでどちらかの家に行けるか。 きっとどこのホテルも一杯だろうし、かと言って俺の部屋――――――…、 悩みながらカウンターまで進み、バーテンダーに桃のサワーとビールを頼んで、カウントダウンの司会進行を始めた亜希へと視線を向けた時、 『 俺の名前を呼びながらやってきた 大抵の事は器用にこなせる 心を捉えて離さない女が自分以外の男にプロポーズされたかも知れない現実はかなり なのに、 『大丈夫なのか?』 先にそう切り出したのは、俺じゃなくて 『何が?』 やっぱり素面《シラフ》というわけじゃないから、ろくに考えもせず疑問を反射的に口にした俺に、 『社内の、しかも堂元に連なる女を今までのと同じように扱ったら――――――』 そして 『――――――ああ!』 気を遣うような表情から、時間差で 『そういう意味では大丈夫。ちゃんとお付き合いする予定だから、困った事にはならないよ』 真玉橋さんがこの場に居たら、未熟者のスタンプを押されてた流れだな、これは。 『さっきまで堂元さんも一緒だったんだ。意思の疎通は取れてる――――――筈』 『筈…って』 その相手が、社でも特に上層部の信頼を集めている有望株の堂元克彦の身内なら致命的すぎて当然の懸念だ。 『まだスタートラインに立ったばかりだけどね。ちゃんと、彼女と向き合うつもりでいるから』 今の精一杯で真剣に伝えれば、 『…そうか。――――――なら、いいんだ。余計な話だった』 息を吐く様に柔らかく微笑んだ 『いつもごめんね、心配かけて』 『お互い様だ』 バーテンにロックのお替わりを頼んだ 『まだ、確かめてないの?』 『…オレには、確かめる術も、ないからな』 『そうだよねぇ』 社食で見かけたからといって、 『何か情報が入ったら、ちゃんと知らせるから、 『聞きたくない…』 『どうせいつか耳には入るんだから、俺が優しく伝えてあげるって』 『…そう、かもな…。その方がマシなのかも…』 こうして、反応が二転三転するのも 隙がありすぎる。 周りを見渡して、肉食系の女子がいないかチェック。 亜希に言って、スタッフにも目を光らせておいてもらえるようにしとこう。 それはちょっと、新年早々のモチベーションとしては望ましくない。 考えをそこまで進めたところで、年越しの十秒前カウントダウンが亜希のリードによって開始された。 『あ、席に戻ろう、 両手にグラスを持って肩越しに 『なな〜!!』 のところで七緒ちゃんが亜希に向かって手を振って、 『間に合った』 さん、と同時に雪の隣に戻ってきたけれど、 『『『にぃ!』』』 潤んだ目で、俺を見上げてくるその顔。 『おうじぃ、おしょい〜』 『え?』 再来、舌、回ってない話し方。 『『『いち!』』』 雪の前には空いたショットグラス。 『『『ぜろ!』』』 『『ハッピーニューイヤー!!』』 『明けましておめでとう〜』 『今年もよろしくぅ』 一気に盛り上がった場を背中に、俺は雪の耳元で尋ねる。 『何杯飲んだの、雪』 『にゃにをですか〜?』 『これ』 コンコン、とショットグラスをテーブルに打って見せれば、 『二回飲みましたぁ。キュッとしてカアァッとして、フギュって感じでしゅう』 言いながら、俺の二の腕におでこをぐりぐりと押し付けてくる。 『え…』 …いや、ちょっと待って、なにこれ、すっごく胸が痛い。 全身がそわそわして落ち着かなくなり、やけに喉が渇いた気がしてビールを半分まで一気飲み。 雪の仕草のそれはまるで、足元に体を擦り寄せてくるユキのようで、このまま頭を両腕で囲い込んで、限界までギュっとしたいけど、一度だけ本気で嫌がられて、爪痕が一本、腕に刻まれた過去を思い出す。 『理性理性――――――』 深呼吸しながら自分に言い聞かせれば、魔の手のように蘇る記憶。 "でもさぁ、目の前に好きな子がいてさぁ、どうしても今って衝動が走ったら、トイレでもいいやってくらい即ハメしたくなるよねぇ" ワイドショーを見ながらそんな事を呟いた財津に、 "ばぁか。そこを制して律するのが良識ある大人の行動なの" 目黒さんが生真面目に応え、 "それでも抑えきれなかったのなら、まだ青少年《ガキ》だったという自らの証明だな" 真玉橋さんが鼻で笑えば、 "…性癖なら仕方ない" 一刀両断とばかりに けれど、思い直したように言葉を足す。 "もしくは――――――、それくらい、本能で求めたか――――――" あ、シーソーが揺れる。 『今年も…よろしくお願いしてくれましゅか?』 そんな俺の葛藤なんか全然見もしないまま、雪はポツリと呟いた。 周りが騒がしくて、真剣に耳を傾けていなければ聞き逃していたかもしれないほど、小さな声。 俯いた睫毛の影に、覚えのある色がある。 『もちろん、よろしく、雪』 『いい子でいましゅ…』 手が、強く握られた。 その力の分だけ、切実な何かが伝わってくる。 良い子でいる。 『雪…』 フラッシュバックのように、脳裏を過った藤代専務の顔――――――。 "私には母親なんて無理よ" どんなに思っても、交わらない現実がある事を、俺も、知っている。 雪もきっと、ずっとそれが叶うと信じる希望を、胸の奥に沈めてきた子供だった筈だ。 『…――――――雪はもう、十分に良い子だよ』 衝動、それと同等の勢いで出たこの想いが、果たして一過性のものなのか、今の時点で誰にも決められないし、俺にもわからない。 『俺には全部、それだけで――――――』 けれど、俺と雪の人生が交わる事は、この湧いて出た愛しさと同じくらい、必然のように感じられた。 |