小説:食べられる花


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Episode:資


 それにしても――――――。


 『…まるで猫じゃらし…だね』

 年を越してそれぞれの興奮が続いたのは一時間程。
 次第に店内も人が疎らになり始めて、そろそろお開きか――――――なんてなんとなく落ち着いてきた頃に、俺の手の動きを追う事だけが意識がある事の証明となっていた雪を途中からは遠慮なくじっくりと眺めていた七緒ちゃんが、そうポツリと呟いた。
 そこへ、タイミング良く席に戻ってきた亜希が直ぐに奥さんに呼応してクスクスと肩を震わせる。

 『ほんと、半分眠ってるのに、凄いや、雪ちゃん。たくみの手にまっしぐらだね』
 『亜希君。お疲れ様』
 『うん。仕入れ先のメンバーはもういないし、後のメンツは適当に遊んで帰るだろうから、ここからのんびりできるよ。お待たせ、七』

 七緒ちゃんの頬に唇を軽く触れさせる自然なスキンシップは、長い付き合いで見慣れすぎて気になりもしない。

 『夏芽、やめなさい』

 その隣ではなっちゃんと巽ペアがスマホを挟んでさっきからずっと押し問答中。

 『決定的スクープ…ぅぎゃ! 七ぁぁ、巽が削除したぁ』
 『だから、勝手に撮らないの』
 『ぶううう、猫ちゃん雪ちゃん、可愛いのにぃ、巽のケチッ!』
 『ちゃんと素面の時に、きちんと友達になってからね』
 『もう友達だし! ね!? 雪ちゃん! 私達友達だよね!?』
 『ッゃ?』

 テキーラですっかり酔っぱらってしまったらしく、左右にリズムをとるようにして揺れながら、俺の手ばかり追いかけていた雪は、なっちゃんの同意を求める声に、弾かれたように顔を上げた。

 『ね? ゆーきちゃん?』
 『こら』

 酔っぱらいを誘導しようとするなっちゃんの額に、巽が握った拳で軽くコツンとするけれど、

 『…えっとお…』

 雪はぼんやりとした表情でそう言いながら、一度、二度、目を瞬かせて、俺を僅かに見上げ、周りを見渡して、それからにっこりと笑う。

 『はい、お友達ですよぉ』

 あ、猫被った。

 無意識で被るんだろうな、これ。


 『そしてこれは王子の手ですぅ』


 脈絡もなく取られて掲げられた俺の手は、雪の頬にスリスリと摩擦を受けている。
 うっとりと細められた目、突き出したり横に伸びたり、色んなニヤケ顔で忙しい唇。

 もしかしたら人の耳には聞こえないだけで、この雪猫の喉はゴロゴロ鳴っているのかもしれない。


 『手フェチなんだねぇ』
 『手フェチなんだよぉ』

 七緒ちゃんとなっちゃんの声が重なれば、

 『はい、間違いありましぇん』

 うんうんと頷く雪も可愛くて、


 キスしたい。

 ベッドの中で早くイチャイチャしたい。

 メイクラブまでいかなくても、ずっとキスしてキスしてキスしてキスして、


 ああ、思考が偏る…。


 …俺も結構酔ってるよなぁ。



 『王子ぃ…』


 また、二の腕に額がスリスリされる。



 プラス、


 さわさわさわさわ。

 指を撫でられて擦られて、



 ――――――ヤバ、なんか勃ちそう。


 もういいかな。
 そろそろ帰ろう。

 俺の家――――――でもいいけど、いずみにバレたら色んな事すっ飛ばされそうだし、
 佑《たすく》ならまだしも、伯父さんに見つかれば直ぐに調べ上げられて、

 『…』

 身内《しゃいん》だって分かった時、どうでるかな。


 『う〜ん…』


 全体的に見通して、無難なのは、雪の家――――――、

 けど…、


 さて、それをどう切り出そうか。


 考えながら、チラリと、俺の腕に頭を寄せたまま眠入りそうになっている雪を見下ろした時、


 『ぉ、咲夜さくや、無事家に着いたみたい』

 スマホを見ながら言った亜希に、巽がホッと息を吐いた。

 『良かった』
 『今は樹梨ちゃんも家にいるから、少しは気が紛れるといいんだけど』
 『どうかな』

 七緒ちゃんの言葉に、亜希は眉尻を下げて小さく笑う。


 咲夜さやちゃんが結婚すれば、咲夜さくやにはもう勝ちの目は無いと、ここにいる誰もが解っているのに、そこから救い出す何の術も持たないから、ただ現実を黙って受け止めるしかない。


 『本人が真面目に手を出す気がない以上、年貢の納め時、だとは思うんだけどね』

 人の女《もの》だから手が出せない。
 そう思うから、変に執着して諦めきれなかったのか。

 亜希はきっと、それを言いたかったんだと思うけど、


 『それはアレでしゅよね、むおせしゃくや、超、ヘタレ』


 お、猫がずれた。


 『しゅきならしゅきって、あの見た目活かしてどーんといけば良かったんじゃないでしゅか? ほいほい寄ってきたら、ぱくって食べて、お互いしあわしぇ、うぃんうぃん〜じゃないすかぁ』
 『ほんとそうだよねぇ。それくらいでいいはずなんだけどね。腕の中に囲ってしまえば、守れないわけでもなかっただろうにさ』

 確かに。
 亜希の言う通り、咲夜さくやならきっと咲夜さやちゃんをしっかり守れたと思う。

 けれど、長いこと足踏みを続けた場所から急に駆け出すとなると、その一歩を踏み出すのに相当な勇気が必要な事も、俺は知っていたから、強くは言えなかった。

 ここまで拗れたら、余程の切っ掛けがない限り、咲夜さくやから咲夜さやちゃんとの距離を詰める事はないだろうというのが俺の長年の視点からの見解だ。


 けど、咲夜さくやごめん。

 薄情だけど、親友の君の事よりも、自分の事の方が今は優先。


 『ねぇ雪』

 俺の声音が変わったのに気づいたのか、亜希が珍しく口を斜めに悪い笑いをうっすらと浮かべる。

 『好きなものに釣られてほいほいついて行ったあとなら、食べられちゃっても結果うぃんうぃんでお互い幸せって、ほんとにほんと?』
 『ほんとですよぉ。ちゃんとうぃんうぃんんんなぶつぶつ交換がお互いにあればぁ、もうバッチリじゃないですかぁ』

 意味が通っているような、いないような。


 『じゃあさ』


 雪に捕まっていた手を引き揚げて、少し距離をとって両手をひらひらと振って見せた。



 『この手、朝まで独占権。何と交換してくれる?』




 それは、酔いに任せた面白半分の投げかけだった。

 こんなに気に入っている俺の手を、独占するために雪は何を引き換えにするんだろう。
 そして残り半分は、もしかしたら俺をそのまま受け入れてくれる流れになるんじゃないかという期待。

 朝までというキーワードは出したから、後は大人の男女の駆け引き。
 うまくいけば、自然に雪の家までたどり着けるんじゃないかって。

 "酔っぱらってる女の子にする事じゃないけどね"


 ――――――と、呆れ顔で亜希が呟いたけれど、普段から誰かれ構わずこんな事をしているわけじゃない。


 今日は雪が相手だから、始まればもちろん、堂元さんにも宣言した通り、まずはちゃんと大切に付き合う気持ちで――――――、



 って、



 『…――――――え?』



 目の前の雪の表情《かお》に、俺は途端に狼狽えた。


 『ちょ、え? 雪?』



 何が起こっているのか一瞬よく分からなくなる。



 『ど、…ッ』

 そう口を開いた雪の、テーブルの上で、白くなるまで潰し合うように握られた両手が震えていた。

 『ど、して、そんな、こと、言うでしゅか?』



 言葉を一つ紡ぐたびに、膨らむように溢れた大粒の涙がぽたぽたと頬を流れ落ちる。


 『その手は、雪のじゃ、ないでしゅか?』
 『え、…あ、えっと』
 『雪のじゃないでしゅか?』
 『いや、あの…』

 予想外過ぎて、どう対応していいかわからず、伸ばしかけた手を、一体雪のどこに添えればいいのかも判断できない。

 頭?
 頬?

 それとも涙に?


 『ゆ、雪、さっきのはつまり』

 慌てて言い訳をしようとしたけれど、

 『あーあ、たくみ、泣かせちゃったぁ』
 『は?』
 『たくみさん、ひどおぉおい』

 亜希に便乗して、わざとらしく肩を揺らして甲高い声を出したなっちゃんに、とうとう雪の引き攣るような呼吸が弾けた。


 『しょ、しょれは、雪のじゃ、ないでしゅか? がま、した、方が、いいで、しゅか?』


 ソレとは、間違いなく俺の手の事で、


 『えーと…』
 『でもしょれは、雪の…、雪の…』


 なんか、冷静に見ると凄いね、これ。

 涙でぐちゃぐちゃな顔も取り繕って隠す事もしない、口らから零れるのは、ただ素直な欲求。
 感情の垂れ流し。

 まるで駄々を捏ねる子供みたいに――――――…、


 子供、みたいに――――――、



 『…』


 ザっという何かが擦れたような音を立てて、脳内で幼少期がフラッシュ程度のモノクロで蘇る。

 いつも家に捨て置かれていた俺には、これ以上の無関心が怖くて絶対に出来なかったか――――――ら……、




 ――――――あれ?



 もしかして、これって、



 『ねぇ、雪――――――』


 小さい頃、両親から欲しかったのは、嘘でもいい、俺が一番だよというそれだけの言葉。
 こう見えてもあなたが大事なのよ、そんな、テレビドラマでしか知らないような赤面物のセリフ。


 雪が、俺と同じように、何かが欲しいと思いながらも、ずっと我慢してきた子供だったのなら、
 こうして、欲求を素直に吐露する相手は選ぶだろう。



 『雪』


 これはつまり、


 "雪が俺に甘えている"


 その証にならないか?



 『泣かないで』
 『ひ、ぇ、ふぃ』
 『泣かないで、雪――――――』


 頭を撫でて、それからすっぽりと両腕で抱え込めば、雪の額がゴリゴリと胸に押し付けられてくる。
 俺だからこそ向けられるだろう動作だと思えば、心に沁みるように可愛く感じられた。


 『――――――俺の名前は? 雪』
 『王子でしゅ』


 …じゃなくて、


 『俺の名前は、宮池?』
 『…てゃくみ?』


 ああほら、雪はちゃんと、相手が俺だと認識したうえで、こうして甘えている。



 『雪、今日は一緒に、お家に帰ろうか』

 耳元で小さく囁けば、


 『…一緒に?』
 『一緒に』
 『…』


 雪が更に小さく返してきた。


 『雪のおうちは一つでしゅ』
 『うん』
 『雪一人のおうちでしゅ』
 『うん』
 『一緒に、雪のおうちに帰る、でしゅか…?』


 そっとあげられた顔の目元には、まだ涙が滲んだ跡。


 『うん。一緒に雪のおうちに帰りたいな』
 『…いらっしゃいませ』
 『…』


 …なんでここ、ベッドの上じゃないんだろう。








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