小説:食べられる花


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Episode:資


 『進展してるなら教えなさいよ』

 逃がすかとトレイを押さえ込むいずみの力が強すぎて怖い。
 まあ、顔は嬉々としているところが、全力で逃げられない理由にはなるんだけど。

 『いや、ほんとに、何もないから』
 『ほんとに?』
 『ほんとに』
 『なんだ…』

 いずみはトレイから手を離し、そのまま椅子の背もたれへと吸い寄せられるように俺から距離をとった。

 『つまらないわ。小母様だってウキウキとあなたの恋の話を待っているのに』
 『…ネタか』
 『馬鹿ね。心配してるのよ。――――――ちゃんとご飯を食べてるか、睡眠はとれているのか』
 『…』
 『月に一度でもいい。ちゃんと訪ねて、顔だけでも見せてあげてよ』

 懇願に近い目線が、正面からぶつけられる。
 これまでは、有難いと思う反面、重くのしかかってもくる感情だったけれど、

 『…うん、近いうちにね』
 『――――――え?』

 ぽかんと呆けた様子のいずみを背後に残して、俺は少しだけ愉快な気分で歩き出していた。





 マイスノー。

 白薔薇の花言葉は純潔。
 一本なら、君だけ――――――。


 信号で停車して、千愛理さんから受け取ったばかりのマイスノーが収まった細長い包みを助手席に確認する。

 『マイスノー…』

 俺の雪。


 気障《きざ》だとか、王子様のような演出が過ぎるとか、どう言われても構わない。

 ずっとずっと一緒だと、言われて溶けた俺の心の一部から、じわじわと広がって全てになったこの想いが、

 余すところなく、雪に伝わればいいと思う。






 上り慣れたコンクリートの外階段。
 手を伸ばせば触れる建物の外壁は塗装が浮いてボロボロで、昭和中期の老朽っぷりは、もはや歴史的価値を持っている。

 それはもう、近所のシンボルとしてプライスレスで。

 ここに初めて俺を連れてきたのは、まさにそんな地元愛をこの場所に炸裂させる亜希で、この二階にあるプールバーに通うのが小学生の頃からの夢だったらしい。
 亜希の宣伝活動の甲斐あって、ビリヤードをするならこの店と、仲間内では暗黙こと。
 正直、他の店の方が良い台は置いているけれど。


 『お、たくみか』

 ドアを開けると、掠れたマスターの声よりも先に、内装に染みついた煙草の匂いが鼻についた。
 ユキは俺がこの匂いを付けて帰ると、女の子達の香水より嫌がっていたけど、雪はどうだろう。

 『久しぶりじゃねぇか』

 カウンターの端から、相変わらず、初見の人にはこれが馴染みの客だか店の人だか判らないだろう態度で、そろそろ五十代に差し掛かろうとしているマスターが話しかけてきた。
 頭も髭も、白いのが混ざっているのがとにかく渋く様になる人だ。

 『ご無沙汰してます』
 『社会人になったら玉遊びの仕方も忘れたのか? 何年振りだよ』
 『半年前にも顔出しましたよ。咲夜さくやと』
 『そうだったか? まあいいさ。遊んでけ』
 『どうもです。ビール貰いまーす』

 勝手知ったるで、途切れたネオンの光る四面ガラス張りの冷蔵庫を開けてビールを二缶、両手に持って歩き出す。
 外観以上に奥行きと広さのある店内の、一番奥にある大きなソファ席が俺達のいつもの場所。
 その手前の台で構えてキューを握っていた亜希は、近づいてくる俺をチラリとみてから――――――、

 カン、

 『…ぁ、』
 『おしい』

 白の手球に撞《う》ち走らされた9番はポケットには入らず、クッションで中央まで戻ってきた。

 『あ〜、もうマジで今日はダメダメ。一度もランアウト出来てない』

 言いながら、亜希が続けて撞《う》ったショットではスムーズにポケットイン。
 クロスには手球だけが残っている。

 『へぇ、珍しいね。何時からやってるの?』

 テーブルに缶ビールを置いて、俺も壁にかかるキューを握る。

 『二時間くらいかな。ランチタイム見回って、その帰りに寄った。七緒は高校の同窓会でなっちゃんと一泊旅行で、チビ達はお義母さんトコ』
 『それでか』

 スケジュールした仲間内のイベント以外、仕事と家庭とでおおよそのライフスタイルが完結している亜希から珍しいお誘い。
 顔を見るまで、何かあったのかと正直不安が募っていたけれど、いつもの亜希の様子にホッとした。

 『それにしても、たくみ、早かったね。休みだったの?』
 『違うよ。ライン見て、咲夜さくやが後はいいから先に行ってろってフレックスで調整した。公私混同炸裂』
 『あ、もしかして心配かけた?』
 『ちょっとね。テンボール?』
 『ん。バンキングは?』
 『俺が先でいいよね? 駆け付け代』
 『それって、ワンゲーム出番無しじゃん』
 『だから、駆け付け代』
 『トバはずせビーム』
 『クッション返し
 『く、ブーメラン、からの呪い返し』

 話しながら亜希がラックを立てる間、俺はチョークでタップの具合を調整。
 手球をセットしてキューを構えて、

 『お先に(ワンゲームいただき)』
 『…』

 そう言えるくらい、ビリヤードは得意中の得意。

 ブリッジの向こうに的球の1番を狙《み》る。
 ブレイクショットでは4個以上の球をクッションさせて、最低1個をポケットしないとファールで交代。


 『――――――』


 キューを引いてストロークに入り、


 撞き出したその瞬間、



 『ねぇ、雪ちゃん食べちゃった?』
 『!?』



 カチ、と。

 ライターで火を点けるのより小さな音。



 『…ッ、亜希! お前!』



 白の手球がほんのちょっと揺れただけのミスショットとなった現状に、マスターの大きな笑い声が店内に響き渡った。





 ――――――
 ――――


 『へえ、じゃあ付き合える事になったんだ、雪ちゃんと』
 『うん』

 あのミスショットの後、亜希が7番までポケットして交代。
 それから1ゲームも渡さずに5ゲーム目に入ったところで、咲夜さくやが合流して三人で15ボールに切り替え。
 2ゲーム楽しんだ後は、デリバリーピザをつまみにビールを飲みながら三人でソファに定住中だ。


 『そっかぁ、たくみがねぇ。ユキにしかデレデレしなかったたくみがねぇ…』

 感慨深く瞬きと頷きを繰り返す亜希に対して、カットレモンを突っ込んだ外国産の瓶ビールを持った咲夜さくやが、にやりと悪く口を歪める。

 『亜希、この顔で驚いていたら、実際に雪を目にした時のこいつには悶絶するぞ』
 『え、そんなに酷いの?』
 『見てられない。バレンタインからこっち、口元がニヤけっぱなしだ』
 『へええええ、見たい、そんなたくみ見たい! ねぇ、呼びなよ、雪ちゃん』

 嬉々とした表情で身を乗り出してくる亜希と、それをたきつけながら澄ました態度でビールを飲んでいる咲夜さくやを正面に、

 『呼ばない。見せない』

 宣言して缶ビールを呷れば、、

 『な?』
 『信じられない…、たくみが"おやつ隠し"してる』



 …俺は犬か。




 『あ、でも、来週末の集まりには連れてくるよね?』

 目を輝かせた亜希に、俺は頷いた。

 『その予定。もう誘ってある』

 雪にちゃんと俺の世界に入ってきて欲しい。
 そして俺の傍にいる事を、不変のものにして欲しい。

 『雪ちゃんOKって?』
 『うん』
 『ふうん…』
 『…亜希?』

 これまでの勢いが何故か減速して、声のトーンが変わった事に気づいた俺は、反射的にそれに食いついた。


 『いや、それで、どうなのかなって』
 『え?』
 『付き合い始めたって事は、雪ちゃんとそういう言葉を交わしたって事だよね? つまり雪ちゃんは、お前の事が好き』

 そこまで語られて、漸く、亜希が何を言いたいか理解した。

 『でもやっぱり疑うの? たくみがさ、ずっと懸念してたように、約束を交わす事によって、雪ちゃんが本当に自分の事を好きなのかどうか、信じきれないって感じたりする?』
 『…正直――――――』


 誰かに好意を寄せられる事。
 そしてそれを言葉にして語られる事。

 子供の頃の、いったい何が俺を歪めたのか。
 その言葉や態度はどうしてか、心にすんなりとは入ってこない。
 それに気づいたのは、初めて女の子に告白された時だった。

 その直前まで、ただの友達としてなら何の問題もなかったのに、俺に好意があると認識した時点で相手の存在が一気に形を変える。


 "何言ってるんだ、この女"
 "俺以外にも親しくしている男がいるのを知っている"
 "今は何よりも勉強を頑張りたいんだと、恋愛より優先するものがある事を語っていた"
 "半年前まで別の男と付き合っていたくせに"


 どんなタイプに告白されても、信じられない。
 友人として好きだった女子も、その一瞬で俺の中で存在を変えていく。


 初めて付き合う事になった梨絵は、俺とのセックスという、疑いようもない根拠が明確にあって示されたから問題は無かった。
 けれど結局その後も、真面目な告白であればあるほど、俺は冷めた目になり、それを受け止める心が真っ黒に塗り潰される。


 『…正直、やっぱり、許せない瞬間は、確かにある』


 雪がPCに向かって俺以外のものに関心を向けている時。
 会社で従兄の堂元さんと"本当の雪"で話しているのを見た時。
 電話で、その奥さんである梢さんと楽しそうに話しているのを見た時。


 遊びなら、いい。
 相手の想いが本当かどうかなんて価値もなく、どうでもいいから。

 けれど俺を好きだというのなら、俺にとっての100は、他人にとっては、200、300を求められる事に相当する。

 通りかかった男に目をとられる事すら、憎しみを生むほどの罪になる。



 『でも雪には――――――』



 "ゃだ、たくみ、痛い…ッ"


 バレンタインの夜。
 想いをこめてマイスノーを贈り、必ず心も伴ったうえで縋らせようと自制した一カ月半が完全に報われるのほどの充実感と共に、俺は彼女のすべてを手に入れた。

 今でもありありと思い出せる。


 小柄な身体を容赦なく押さえつけ、
 苦痛に泣く姿すら笑い、


 "涙ためてる雪、可愛いね"
 "…ぅぅ"
 "どうする? ほんとにやめる?"
 "…うう"
 "この先の快感に、興味あるんでしょ?"
 "うううう、でも痛い…"
 "もっと痛くしてあげる"
 "…ぅ"
 "それとも、いつか俺以外の男にされる?"


 100を超えるように、言葉を重ねて雪に俺の存在を肯定させる。


 "たくみが良い"




 "――――――そうだと思った"


 あの瞬間の幸福感の深さは、思い出すたびに俺の心をハイにして、蔓延ろうとする黒を吹き消す。



 『…雪にはどうしてか』



 もちろん、黒が完全に湧いてこないなんて事はない。

 けれどそれ以上に、



 『俺が、200も300もあげたいって、そう思うんだ』


 同じような環境に育った雪は、根本的に俺と同じ。
 家族になら無条件に愛されるという常識に浸れなかった俺達は、誰よりも自分を想ってくれる存在を求めていた。


 俺の中にある、それを核とした恋愛観の根底がひっくり返されたのは、酔った彼女の体に初めて触れたあの正月の夜の事。


 悲鳴ですべてが終焉したその後に、雪は別の意味で俺に縋りついてきた。


 "ごめんなさ、もう痛くない、雪、次は、ちゃんと出来る。だから、もう一人にしないで――――――"


 "…うん、一人にしないよ。ずっと、二人でいようね"


 そう伝えれば、涙で濡れた顔を微笑みに変えて、俺の腕の中で安らかな寝息を立て始めた雪を見て、

 欲しかったものを与えてやりたいと、今まで知らなかった愛のカタチが、湧き出るように俺に生まれた。





 仕事中は離れていて仕方ない。
 それを我慢しているから、社食で会った時に彼氏として雪を構い倒せないのは精神的にかなり負担が大きい。

 その隙間を補っているのは、間違いなく二人きりになれるベッドの中の時間で、


 …正直、雪がもっているリストのおかげで、ベッド以外でのプレイが多い気がするけど、それはそれで楽しいから問題ない。


 『猫耳は最高だったし』

 ポツリと漏らした声に、

 『猫耳!!!』


 亜希が反応した事に慌てて口を押さえてももう遅い。


 『バレンタインからまだ四日だよね!? え、たくみってそっち系だったの? コスプレイ?』
 『なるほど、口元が緩むはずだな。ユキごっこは楽しかったか?』

 長い脚を組み替えながら、そっちこそニヤニヤと口元を緩めながら告げる咲夜さくやには、そのあたりは筒抜けか。
 財津の野郎《やつ》。

 しかもユキごっことか、

 『咲夜さくや、その表現、いたたまれないからやめて。あと、俺のじゃない』
 『え、じゃあ雪ちゃん!?』
 『厳密に言えば、それも違う。――――――好奇心は、凄いけど』

 少し酔った勢いもあって思わず口にしてしまえば、また亜希が過剰とも言えるリアクションをとった。

 『わかる! 女子の方がセックスに対する好奇心は深いよね』
 『そうなのか?』

 三本目のビールの栓を抜いた咲夜さくやが、そう返しながら小皿にカットされたレモンを瓶の中に絞れば、強い酸味の香りが新たに広がる。

 『そうだと思うよ。梨絵もそうだったけど、元子ちゃんとかもそうじゃない?』
 『元子の場合は性癖だろう? それをビジネスにして生活が出来る。類稀なる幸福者だ』
 『けど元子ちゃんの話にさ、意外とのめりこんじゃうよね。女の子達は。元子ちゃんに会った後は、オレ絶対に七緒とするって決めてるんだ。何か新しいこと覚えさせられてないかなって』

 あ、咲夜さくやの非難するような横目が亜希に刺さった。
 そんな咲夜さくやに、亜希は毅然と立ち向かう。

 『言っておくけどね、咲夜さくや。何より怖いのは、それを七緒が知ってるって事』
 『…何をだ?』
 『だから、元子ちゃんに会った夜は、オレが必死になって痕跡を探して上書こうってする事に対して、七緒はキュンとしちゃってるって事!』

 …それは辛い。

 『それすら元子ちゃんの意図が絡んでるかと思うと、ちくしょうって思うんだけど! 普段フラットな七緒のそういう反応、ちょっと可愛いとか思っちゃうし、ほんと悩まし過ぎる』

 言い切ってゴクゴクとビールを飲み干した亜希に、咲夜さくやが少し間をおいて告げる。

 『放置したらどうだ? そんな駆け引きなんか無意味だったと反省して、なりふり構わずお前を欲しがるまで』

 なるほど、咲夜さくやはそうくるか。

 『無理だった…』

 …既に試していたらしい。

 『自分以外の爪痕が七緒の体についてるみたいで凄く嫌なの! 嫌なものは嫌! 全部上書きしないと眠れない! 寝不足で死ぬ!』

 酔いも手伝っているんだろうけど、珍しい亜希の興奮度に、もしかして直近の事だったのかと同情した。


 『お前なら? たくみ
 『ん?』

 傍観を許されず、咲夜さくやに求められて俺は唸る。



 『――――――お願い、するかな』


 そしてそれが破られる度に、俺はほんの少しだけ悲しそうな顔をすればいい。
 そうすれば、基本が優しい雪は、元子ちゃんと話をするたびに、俺の事を考えるようになるはずだから。


 『二人の線引きは、二人で決めて行かないとね』


 意識してにっこりと笑った俺に、二人の親友からは、胡乱なものへと向ける視線が放たれていた。








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