小説:食べられる花


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Episode:資


 ――――――
 ―――――

 『…買い物って、ここ…?』

 亜希の店に行く前に、雪を連れてやってきのはルビさんが経営するジュエリーの老舗ブランド、"Stella"の本店。

 『うん』
 『ふうん』

 何を買うのか、一切伝えずにここまで来たから、雪はたいして興味もなさそうだ。
 普通、彼氏とこういうお店に来るって事は、指輪だとか、お揃いの何かを買おうとか、女の子の方がもう少し過剰に反応しても良さそうなのに、

 『…』

 多分、まったく想像すらもしていないんだろうと、いつもと変わらない雪の表情から判断できた。


 『あたし、初めてかも』
 『"Stella"?』
 『うん』

 これまで、下心込みでアクセサリーをプレゼントされた事がないわけじゃないとは思うけれど、処女だった事と雪の根本的な性格を鑑みれば、彼氏と名を付けた関係は今までなかったのかもしれない。
 そうすると、"ペアもの"自体が初めてという可能性が高い。

 『…そうなんだ』

 また口元が自然と緩む。

 雪といる日々は、こういう穏やかな幸せの積み重ねで、まだ慣れない。


 『行こうか』

 どんな顔をして雪を見ればいいのか分からなくなって、俺は繋いだ手を少しだけ強めに引いて、店内へと足を踏み入れた。




 千愛理さんがディスプレイした花の世界観に包まれたこの本店は、開店して十年以上経つけれど、その歴史をあまり重く感じさせないライトな明るさがあって、ラフな格好をしていても入りやすい。

 時代の変革について行けずに座礁しかけた"Stella"という船を、ルビさんが資本力で再び海原へと漕ぎ出させ、それまでとは違う手法で強固な地位を業界に確立する事が出来たのは、経営戦略の中に"Stella"の有り方自体までも、明確に指標されていたからだと咲夜さくやが評していたのを思い出した。


 『あら、たくみさん?』

 目的のコーナーを探そうと店内を見回していると、そんな俺を目敏く見つけて出迎えてくれたのは照井さん。

 『いらっしゃいませ。お久しぶりですね』

 ゆったりとした、無条件に人を包むような微笑みは、三十代前半の若さながら"Stella"の取り扱うすべての宝石の流通を統括する責任者に相応しいものだけれど、その素顔は意外とミーハー度が見え隠れするタイプでもある照井さんは、ルビさんが頼る人財の一人。

 『照井さん、今日はこっちにいたんですね』
 『今は月の半分は日本にいるんですよ』
 『もしかして、マネージャになる話って、ほんとそう?』
 『…相変わらず耳が早いんですね』

 唇を笑みに結びながらも眉間を少しだけ寄せた照井さんは、言いながら俺の横に立つ雪へと視線を滑らせた。

 『あら、そちらの方は?』

 紹介し易い状況を作りながらも、社交辞令のつなぎ会話だという事が判る。
 今迄までの成果が"大学の友人"やら"遠い親戚"という実績だから仕方ないとは思うけれど、

 『俺の彼女』
 『えッ!? 彼女!? たくみさんの!?』

 不意を突かれたからか、らしくなく狼狽した様子の照井さんに、俺は思わず噴き出してしまった。

 『うん。ブレスレットをね、欲しくて』
 『ブレス、レットを――――――?』
 『うん』
 『まあ…それは、』


 きっと、彼女の脳裏に浮かんでいるのは俺がユキの為にブレスレットを予約した時のこと。
 あの時のルビさんの呆けた表情は、今でも一部で語り草になっているらしいから、色んな意味で現実を正しく整理しようと頑張っているんだと思う。


 『ぇっと…』

 何かを躊躇《ためら》うように雪の方をチラリと見て、それから意を決したように、照井さんが口を開きかけた時だ。


 『――――――たくみ?』


 聞けばルビさんだと判る柔らかな低音の声が、確認を込めたニュアンスで俺の名前を紡ぎだした。


 『ルビさん』

 見れば、相変わらずの王子様っぷり健在のルビさんが颯爽と近づいてきている。
 店内に差し込む陽光が混ざり、クリーム色に近いルビさんの淡い金髪が、まるでこのあたりの全ての光源となったような幻が目に映った。

 雪の様子をこっそり窺えば、案の定、目がキラキラと輝いている。


 『たくみが"Stella"に来るなんて珍しいね。まさかまた――――――』


 何を考えたのか、ほんの少し難しい表情になりながら訝しみを向けたルビさんは、ふと、俺の隣の雪に目を留めた。


 『…この、女性は?』

 もしかして――――――という表裏の感情を表した、そんな声音。

 どうやら本当に、千愛理さんは内緒にしてくれていたらしい。


 『俺の恋人《ステディ》』
 『え?』
 『魔法にかけちゃダメですからね、ルビさん』

 驚きに見開かれた蜂蜜のような眼差しが、何度も俺と雪を行き来する。
 そんなルビさんがバサバサと震わせる綺麗な睫毛に、雪の目は釘付けだった。


 ――――――あ、


 それがなぜか下の方へと移動しかけた瞬間、

 『こら』

 反射的に雪の前に手をかざす。
 思いっきり残念そうな顔をした雪に、いま誰を防御したのかもう不明なところだ。
 そしてその様子から、雪の脳内で一体何を想像されたのか、何となく伝わってきた。


 『想像禁止』
 『…ぅ、自重、します…』

 言いながら、

 …今、絶対に一時停止から別フォルダに保管しただろうと、疑いの目を向ければ逸らされる。


 そんな中、

 『――――――社長』

 漸く照井さんが息を吹き返したように声を上げた。

 『たくみさん、ブレスレットを買いに来てくださったそうですよ』
 『ブレスレットを?』

 照井さんに続いて、状況の整理を始めたらしいルビさんを、改めて雪に紹介する。

 『雪、こちら"Stella"の社長で本宮ルビさん』

 すると、今度はルビさんと照井さんの二人が同時に目を瞬かせた。

 『ユキ…?』

 実際に声に出して復唱したのはルビさんで、

 『SNOWの雪です』

 俺が言葉を足せば、次第にそのヘーゼルの向日葵が輝きを増してくる。

 この名前から、色んな事が縦横無尽にルビさんの頭を走っている筈だ。
 良い意味も、悪い意味も。


 『…ブレスレットは、彼女と?』

 その問いに、俺はしっかりとルビさんの目を見て頷いた。
 後ろめたさなんかない良い意味で、同じ名前の大切な人が出来たのだと、しっかり伝わるように、真っ直ぐに。


 『そう――――――』


 吐息のように吐き出した瞬間、ルビさんの目が泣きそうに震えたことに、俺は堪らなくなって目を逸らす。
 自分を思ってくれている人からの、その受け取り慣れない慈しみの思いは、いつだって不意打ちで胸を締め付けてくるからやっぱり苦手だった。


 『――――――たくみ

 小さく名前を呼ばれて仕方なく再び顔を合わせれば、ルビさんは極上とも呼べる笑みを浮かべていた。
 何もそれを表す言葉はなかったけれど、その瞳がおめでとうと雄弁に語っている。

 どうやら、正しくルビさんに伝わったらしい。


 『――――――照井さん、僕の部屋からスノーホワイト、ロット0を持ってきて』
 『えッ!? あ、はい。かしこまりました』


 弾かれたように駆け出す照井さんに、俺は困ったとルビさんを見た。
 ロット0は、かつてユキじゃなくて俺の"恋人"のために作っていたブレスレットだと聞いていたからだ。

 売らずに、ずっととっておいてくれていたらしい。


 『漸く渡すことが出来て嬉しいよ』

 噛みしめるように言ったルビさんは、けれど残念そうに首を振った。

 『ゆっくり話したいけれど、これから成田なんだ』
 『ロスですか?』
 『うん。帰ったら連絡するから、その時は四人で食事でも行こう』


 俺の肩を叩き、長いスライドで歩き出したルビさんの背中に、そう遠くない約束の日を思いながら、ピアスコーナーへと興味を示した雪を追いかけて、ふと気づく。

 その目線が、ブライダルコーナーに向けられている事に。


 接客を受けて指輪を選んでいたのは一組のカップルだった。
 それなりの恰好はしているけれど、一般的なOLにしては少し派手に見えるメイクをした女の方がやや積極的に店員に説明を求めて、腕を掴まれた男は、時々相槌をねだられては、曖昧に頷いている。

 雪が見ていたのはどうやら女の方らしい。


 『――――――…あれ?』



 結婚前から尻に敷かれているんだなと、苦笑で視止めていたその優男が僅かに振り向いた時、


 『…誰だ?』


 俺は、確かにその顔に見覚えがあった。



 誰だった――――――?



 直接の知り合いじゃない。

 いつも、誰かの隣に――――――…、



 記憶が浚えそうで浚えない。

 もう少しというところで零れ落ちる。


 そんな時間をどれくらい過ごしたのか、



 『お待たせしました』


 満面の笑みで照井さんがやってきた時には、既にそのカップルは仕切られたプライベート空間へと案内された後だった。





 『こんにちは、たくみさん』

 ほんの少し、馴染みのない顔ぶれの集団に戸惑いを見せている雪の手を引いていつもの仲間の元へ行けば、七緒ちゃんがふんわりと笑顔で迎えてくれた。

 『雪ちゃんも、また会えて嬉しい』
 『雪ちゃん! 大晦日ぶりだね。元気だった? っていうか、覚えてる?』

 七緒ちゃんに被るようにして声を乗り出してきたのは夏芽ちゃんがそれなりに心配そうな表情は見せているけれど、恋バナ大好きな子だから、暴走して雪に馬乗りになるんじゃないかと手綱を持っている筈の巽を見た。
 ほんの少しだけ困ったように笑っているけれど、信頼は出来る。

 『覚えてますよ。後半あたりはちょっと厳しいんですけど』
 『あはは、あれだけテキーラ飲んでちゃね』
 『…お世話かけました』

 髪を揺らしながら頭を下げた雪に、二人が慌ててぶんぶんと手を振る。

 『ううん! 全然! たくみさんがずっとフォローしてたから、問題なかったよ』
 『どっちかっていうと、そのたくみさんに雪ちゃん任せる事の方が危機感覚えてたけど。やっぱり食べられちゃった?』
 『あ、なっちゃん!』

 顔を真っ赤にして夏芽ちゃんを窘めようとする七緒ちゃんに、にやにやと口元を緩ませた雪が目を輝かせている。

 『…雪』

 卑猥な映像を前にした時と同じ顔。
 雪の脳内にいる羞恥に塗れた七緒ちゃんを、もしもここにVR化出来たなら、亜希はさぞかし悶えたかもしれないな――――――そして元子ちゃんと同じ立ち位置に…なんて、亜希が頭を抱える姿を想像しながら、愉快さを誤魔化そうと巡らせた視線の先に、ふと咲夜さくやの姿が止まった。

 その瞬間、フラッシュバックしてきたのは、時々見かけていた隣の大学の準ミスが恋人と歩く姿。
 付き合っているのかいないのか、距離感がよく分からなくて、カムフラージュじゃないかと噂をされていた、いかにもおぼっちゃま風の優男。


 『あ』



 ――――――思い出した。


 『…雪、ちょっとここで待てる? 少し咲夜さくやに話したいことあるから』
 『うん。大丈夫』
 『そうよ。大丈夫大丈夫。とって食べたりしないから』

 調子よく応えてきた夏芽に内心苦笑しながらも、舐めるものだめだからね、と巽にこっそり告げて手を振ってよろしくして、それから咲夜さくや目指して歩き進んだ。


 『連れてきたんだな』

 目が合った途端、唇の端を上げてそう言った咲夜さくやに、

 『もちろん』

 と反射的に返せば、透かさず顎を上げて会話のボールを戻される。

 『即答か。変わるもんだな。他人《ひと》の恋愛を醒めた目で見ていたお前が』
 『本質はそんなに変わっていないと思うよ。ただ、雪を見るための目線が、俺に新しく加わっただけ』
 『そういう解釈もあるか』
 『多分ね』

 来た道を振り返り、なっちゃん達と楽しそうに話をしている雪を見て、それから咲夜さくやを見る。

 『だからこそ――――――、変わっていないからこそ、早く掴まえなくちゃって、そう思うのかも』
 『…たくみ、お前…』
 『これから先、同じくらい俺を惹き付ける女の子が現れるなんて、全然思えないしねぇ』

 そこまで告げれば、咲夜さくやは俺の考えの全てを理解したようで、『そうか』と頷いた。

 『おめでとう』

 生真面目にそう口にされれば、

 『…うん』

 妙に照れ臭くなって目線が泳いでしまう。
 揶揄《からか》うような笑みをビールごと飲みこんだ咲夜さくやに、俺は気を取り直して口を開いた。

 『咲夜さくやはどうなの? 最近は』
 『ん?』
 『咲夜さやちゃん』

 ハッと見開いたその表情が、普段から押し込めている負の部分を濃くしていた。


 『…珍しいな、お前からその話題を正面から切るなんて』
 『ちょっと気になる事があってさ』
 『気になる事?』
 『――――――うん…』

 切り出してはみたけれど、アレは確実ってわけじゃない。

 "咲夜さやちゃん、ほんとにまだあの男と付き合ってるの?"


 期待を持たせて、やっぱり間違いだったなんて話が、色々と拗らせている咲夜さくやに通るだろうか。
 勢い余って来たはいいけど、何が最良かまだ判断がつけられていなかった。
 咲夜さやちゃんの様子と、そしてさっき見た光景から、都合の良い現状を無責任に想像しただけで突っ走りそうになるなんて、どれだけ浮かれてるんだって話だ、俺。


 『――――――その、…咲夜さくや、最近あまり楽しそうじゃないでしょ、食堂で咲夜さやちゃん見つけても、さ』
 『…』

 綺麗な眉間に縦の線が深く刻まれる。
 まるで何かを呑み込むように、唇の形が縮まった。

 『咲夜さくや…?』

 別に追い詰めるつもりじゃなかったけれど、語尾を薄くした俺の呼びかけに、咲夜さくやは痛そうな顔で呟いた。


 『――――――妊娠、したのかもしれないな…ってな』
 『…ぇ?』



 にんしん…、


 『――――――あ!』


 咲夜さくやに言われて初めて気が付いた。
 他人でも心配になるあのやつれ方は、確かに、そういう見方も出来るかも。

 なら、"Stella"で見かけたあの二人の、もしかしたら男の方はやっぱり咲夜さやちゃんの彼氏だったとして、連れの女は姉妹《きょうだい》、もしくはただの友人。
 単に、出かける事の難しい咲夜さやちゃんの為に、他の異性と行くのはどうかと思うけど、サプライズでプレゼントする為の指輪の下見に来てたとか…?


 いやでも、あの二人の後ろ姿を、思い出せば出すほど――――――、



 『――――――あのさぁ、咲夜さくや


 違う。

 あの、胸を当てこするような腕の絡め方はそうじゃないと、思う。
 あれは確実に、男女の関係があってこその距離感だった。


 『どうせ諦めきれないならさ、お友達――――――になるのはダメなの?』


 これは、願望なんだろうか。


 『…友達…?』

 俺の言葉をゆっくりと反芻する咲夜さくやが、頼りなく目に映る。








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