小説:食べられる花


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Episode:資


 朝起きて、シャワーを浴びて、着替えて、


 『…おはよう、たくみさん』

 玄関を開ければ、最近はよく遭遇する伯母さんに愛想笑い。

 『おはようございます』
 『その…、良かったら今日のお夕食は一緒に食べない? 佑《たすく》も来るって言ってるし』
 『いえ、年度末で忙しい時期で、何時に帰れるかわからないんです。お待たせするのも気が引けますから』
 『でも――――――』
 『すみません、急ぐので』


 会社に着いた瞬間から仕事に忙殺される日々。
 雪に引導を渡されたらしいあの日から数日は正面玄関で待ってみたりもしたけれど、関係性を明かせない限り、俺が話しかける正当な理由なんか探せるはずもなく、

 …俺達の関係が終わったんだとしたら、それはそれで、付き合っていた事実を暴露して困らせてやろうかとも思ったけれど、

 ――――――けれど、もしかしたら残っているかもしれない雪との僅かな縁を自ら切ってしまう愚行のような気がして、振り切る事も出来ない。


 一心不乱にキーボードを打つ。
 エンターキーの音が、オクターブ高く耳に響く。


 そう遠くない位置にあるソファで、真玉橋さんが人事部の堂元さんと幾つかの事案について話し合いをしていて、

 "鉄は熱いうちに打てというけれど、今の雪は、下手に打てば意固地な方向へと形を変えていく気がするからね。熱が冷めるまでは、しばらく傍観するつもり。――――――悪いけどアテにはしないで欲しい"

 雪に避けられ始めた頃に顔を合わせた堂元さんは、尋ねる前にそう言って釘を刺してきた。


 『たくみ、昨日言ってたプレゼン用のデータ、いま送信した』
 『ああ』

 財津から声をかけられて、受信フォルダから直ぐにメールを開いて件のファイルをローカルに落とす。


 『ねえ、たくみ。そろそろお昼だよ? 社食にカツサンドでも食べに行こうよ』
 『これが終わったらね。先に入っていいよ』

 自分の手によって入力される文字を見ながら、財津への応えとして笑みを浮かべる。

 『…でもさ、たく――――――』
 『それよりさ』

 PCから目を離さないまま、俺は溜息を吐いた。

 『この工事の音、どうにかならないかな。集中力が切れて困る』
 『…そう、だね』

 調子の良さが売りの財津にしては切れが悪い答えは、


 『――――――たくみ咲夜さくやが戻るのって、来週だっけ?』
 『うん、そうだね。何かある?』
 『…ううん。早く帰ってこないかなって、思っただけ』

 そんな会話で上書きされた。



 ――――――
 ―――――


 自分が生きているこの世界がどこかリアルに思えなくなって、一体どれくらいが経ったのか。


 朝起きて、会社に行って、仕事をこなして、マンションに帰り、

 『…』

 玄関が閉まって、外界との空気が遮断された瞬間――――――、



 『…ッぐ』


 こみ上げてくるものを恐れて、思わず両手で口を覆った。
 まるで反射運動のように、内臓全体が上下に収縮するのを止める事が出来ない。


 『…ッ』


 靴を脱ぎ捨てて、トイレへと駆け込み、便器を握りしめた。


 『ぅぐ…、ぉえ』


 ああ、せっかく腹に突っ込んだ栄養補助食品が…、



 『…ユキ』


 全てを吐き尽くし、精魂尽きて廊下にぐったりと倒れこんだ俺の指を、いつかのユキがぺろりと舐める。
 生理的に溜まっていた涙が、鼻筋を横切って何度か床に垂れた。


 『俺を止めて、ユキ』

 時々、自我が無くなっていく錯覚がある。




 『――――――止めて…』



 "毒にも薬にもならない、私達夫婦にとって、子供って、無価値だったわ"


 母さん…。


 "どうして?"
 "なんで?"


 子供の頃から、ずっと問い続けてきた。


 両親が死に、その問いかけに永遠に答えが返らない事を知って、ホッとした。
 この先、彼らから得られる物はないけれど、今以上に心から削られる物もなくなったのだと安心したんだ。


 『止めて、ユキ、――――――俺の、』



 "一つも欠けるなら、君なんか要らないんだ"



 雪を、

 俺を見ない雪を、



 『止めて…』


 この手で殺してしまいそうになる、



 俺の、息を――――――…。



 ――――――
 ――――


 『…たくみさん』

 朝、玄関を開ければ伯母がいる事が日課になりつつある。
 ビジネス界では冷淡とも評される伯父が望んで選んだ女性。
 後ろに控えて、寄り添うように支えてくれる、優しい笑みを浮かべた、良い意味でも悪い意味でも、生まれた時から大切に育てられたであろう人。

 両親の葬儀の後、俺を引き取る話を積極的に進めていた伯父の傍で、戸惑いを隠さずにいた人。
 上辺だけの話しかしない大人達《たにん》の中で、伯父以外に唯一、


 俺を一人の人間として目にいれて、慈愛を向けてきた人――――――。


 『おはよう、たくみさん。あの…良かったらうちで朝食を――――――』
 『いえ、時間がないので。すみません』

 ぶつかった視線を外して、半端な会釈だけで礼をとる。

 『たくみさ』

 背中を撫でるようなか細い声を、振り切るようにして歩を進めた。


 関わりたくない。

 触れたくない。



 『――――――…』



 大切にしたいと願うものは、この手で掴もうと思った瞬間、まるで砂のように指の間からこぼれ落ちる事を知っているから――――――。


 それを望んではいけないと、自分に言い聞かせたのは幾つの頃だったろう。





 ハードでもソフトでも、ひたすら積み上げられてくる業務を黙々とこなして、時々砂を噛むような気分で栄養補助食品のバーをかじる。
 どうせ家に帰れば吐き出すのに、それでも、食べているふりをしないと財津や目黒さんだけじゃなく、ここ数日は真玉橋さんも眉間に皺を寄せるようになったから、必要な演出だ。

 『!』


 視界の端に、青い光が走ったような気がして反応する。
 目で追ってみても辺りに何か動いているものは確認できない。

 ――――――集中力が続かなくなってきたのが、自分の事なのによく見えていた。


 違う。

 まだ大丈夫だ。

 俺はちゃんと出来ている。

 この場所で、必要とされる仕事をして、ちゃんと――――――、



 『――――――さん、宮池さん!』


 遠くなりかけた意識が、芯のある強い声に引っ張られて戻った。


 『…え?』

 顔を上げると、そこには僅かに険しいものを含ませた表情の堂元さんがいて、目があった途端、盛大な溜息を吐かれる。

 『どうぞ、こちらをご確認ください』

 デスク上の空きスペースに一枚の紙を滑らされて、俺は霞んだ目を何度か瞬かせた。

 …有給取得に関する命令書…?


 『人事総務より通達です。本日午後から2.5日の有休を消化するように』
 『…はぃ?』

 2.5って、そのまま週末加えて5連休…。

 『あの、堂元さん、年度末目前に、こんなに休めるわけ――――――』
 『宮池たくみさん』

 堂元さんの指先が、眉が顰められるのと同時にデスクを二回鳴らした。
 座ったままの体勢で受け止めた、俺を見下ろす眼差しからは、大晦日の夜に少しは感じられた気安さは微塵も見つけられない。
 それは、雪との間にあった、俺が知らない何かしらの事が要因なのか、それとも、ただの業務仕様というだけなのか。

 『これは命令書です。拒否権はありません。後半部に記載の通り、この通達に従えない場合は医務室まで強制連行させていただきます。その場合』

 切られたセリフの合間に、小さく息を吐く音がした。

 『その見るからに精神面での不健康さが醸し出されている状態だと、とても一カ月程度の休職で済むとは考えられませんが――――――産業医の判断に委ねますか?』

 抑揚のない、淡々とした通告。
 その内容をぼんやりとした思考でどうにか咀嚼して、それから自分の視界をぐるりと見回す。

 困ったような表情でこちらを見ている財津と、腕組をしてPCから目を離さない目黒さん、そして口を一文字に結んだまま、資料を手に席から立つ気配もない真玉橋さん。

 誰も、このやり取りに入ってこない。


 ああ、なんだ。


 ――――――この事態は、予告済みだったというわけだ。


 知らなかったのは俺だけ。

 俺だけ――――――…。


 『わかりました…』



 世界に、チリチリという音が響いている。

 視界の端から黒い虫のようなものが中心目掛けて広がって、



 『――――――雪…』


 時々、セキュリティゾーンや社食に続く廊下の途中で雪を見かけた時にだけ、染まった黒が洗われる。



 言葉にはならない。

 ただ、色んな雪の表情が、二人で一緒にいた時の景色が、走馬灯のように脳裏を過ぎる。



 どうして?

 なんで?



 聞きたい。

 問い質したい。



 違う。

 聞かない。

 聞いちゃいけない。



 "子供って、無価値だったわ"



 同僚とにこやかな表情で歩いている雪は、俺を目にしたら不快さに眉を顰めるだろう。


 "無価値だったわ"


 耳鳴りがする。


 "もうお腹いっぱい"



 それはつまり、


 "もう食べられない"


 それはつまり、


 "たくみはもう要らない"


 子供として、恋人として、仕事でも、人としても、


 ――――――この手に、何も残っている気がしない。



 思考が、凪ぐ。

 空っぽだ。



 廊下に視線を落とし、無意識のうちに駐車場へと身を運んでいた。

 馴染みの警備員の挨拶がザラザラと聞こえる。

 セキュリティが解除される無機質な音が耳の奥に響く。



 まだ春には遠い冷たさが、体に触れた気がするけれど、何も感じない。

 世界が暗い。

 そして果てしない。



 ああ、そっか。


 ここには、誰もいない――――――。


 この世界には。



 なら俺が、


 俺が世界《ここ》に生《い》る意味は――――――…、



 『ユキ…』


 意味は…、



 ユキの毛並みを愛でる時の手触りだけが、鮮明に掌に蘇る。

 交錯して、雪の髪を撫でた時の想いがフラッシュバックする。


 違う、それはもう俺には掴めないものだ。

 懐かしむべきは、ユキの感触。

 表面がカサリとして、でも弾力のある肉球。

 頬を合わせるたびに俺の肌を擽ってきたしなやかなヒゲ。

 短い独特の鳴き方、甘い声。


 呼吸。

 ユキの呼吸。


 声。

 ユキの声。


 ゆきのキス、



 ユキの、

 ゆきの、


 雪の――――――、




 『――――――たくみ




 ――――――…え?



 その声は、まるで一筋の光のように、モノクロの世界に優しく差し込んできて、



 『ぁ…』



 どこかに飛びかけていた思考が、一瞬で現実に呼び戻された。


 微かな風にも揺れる柔らかなクリーム色に近い金髪。
 俺をただ真っ直ぐに見つめてくるヘーゼルの瞳。



 『ルビさ――――――』



 なぜ、こんな真っ昼間にルビさんがここにいるのか。

 なぜ、誰もが眉間を寄せる荒んだ俺の顔を見ても、穏やかに微笑んで手を伸ばしてくれるのか。


 【ついさっき、ロスから戻ったばかりなんだ。来週はバンクーバー。春までは行ったり来たりだよ】
 【…そう、なんですね】

 車のキーを持っていた手の首を掴まれて、『おいで』と強めに引かれれば、俺の体は逆らわず、左右の足が正しく機能して前進する。


 【一緒に、少しゆっくりしよう、タクミ】


 さんざん聞いてきた言葉の筈なのに、ルビさんが紡いだフレーズはツンと胸に沁みた。
 乾ききっていた筈の視界が突然水面のように揺れ始め、久々に生きている事を思い出す。

 【…はい】

 英語での会話が、温かい。
 俺は、この瞬間に初めて、無自覚のまま自分が求めていたものを理解した。








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