小説:食べられる花


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Episode:資


 【気持ちいいね】

 そう言ったルビさんの、ピンク色のも見える鎖骨にはうっすらと汗が浮かんでいて、

 【意外だった?】

 上る湯気の中、縁を少し赤く染めた琥珀の眼差しが、悪戯っぽく笑みを湛えている。

 【そう、ですね】

 全身が温まってくると、思考もゆったりとしてきた俺は、漸く落ち着いた気持ちで、岩を並べて造られた景観を見回した。

 ここは京都。
 恐らくは知る人ぞ知るという歴史も格式も随分とありそうな旅館に連れて来られたかと思ったら、更に林の奥にある離れまで人力車で運ばれて、

 【温泉、イメージじゃなかったです】

 気が付けば専用の露天風呂に浸かっているこの場面。

 まさか、ビルの屋上からヘリを使ってこんなところまで移動するとは思わなかった。
 ルビさんに会った途端に芽生えた安堵と、ヘリに乗せられた時の戸惑いと、行き先を知った時驚きが混ざり混ざったわけのわからない思考のまま、ただ"今に至った"という思いだけが正直な感想だ。

 【唯一、千愛理を釣れる餌なんだよね】
 【え?】
 【温泉】

 ルビさんの、これもまた意外だと印象付ける大きな両の手が、ジェル状にも見える重そうな水をざぶりと掬う。

 【彼女は、自分の仕事がとても好きだから。――――――花は生き物だからね。刻々とスケジュールの変わる僕の都合でデートに誘い出すことはなかなか難しいんだけど、温泉なら一晩…ほとんど日帰りと変わらない時間だけど、優先順位がちょっとだけあがる】

 …二人の関係性が、千愛理さん有利に見えるのはその根底があるからなんだな…。

 言い終えて、苦笑する頃にはルビさんの手の中の水は全て流れ落ちていて、

 【僕にとって愛は、この水と同じように掴めないものだったよ】
 【え?】
 【昔ね】

 思わず食い入るように見つめたルビさんは、けれど俺の方を見ようとはしない。


 【それを掴もうと必死に足掻いていた。他人の愛を都合よく解釈して、たくさんの女性を都度よく抱いて――――――でもある時、教えられて、気づかされた。愛は掴むものじゃなくて、触れるものだって】

 愛は掴むものじゃなくて、触れるもの――――――?


 【…千愛理さん?】

 現状からそうあるべきだと、思わず口から出たその名前に、

 【別の人だよ。千愛理に出会った頃に関係のあった教師と、――――――それから、僕に初めて女性を教えてくれた人】
 【…】
 【人には、たくさんの愛の形があるからね。でも、それに気づくのはいつもリアルタイムじゃない。そこが、感情と理性を併せ持つ、人の難しいところなのかな】

 ルビさんの手が、まるで魚のように湯の中を泳ぎ、そうして揺らされた水の間には日本人離れした白い裸体。
 鍛えている感じじゃないけれど、ただ細いだけじゃないのがわかる。
 トップエグゼクティブであるほど、その所作には世界で通用する力強い優雅さが求められ、見た目よりもそれを支える体幹を鍛える人が多いと咲夜さくやに訊いたことがあるから、もしかしたらルビさんもそっち系なのかもしれない。
 千愛理さんを守る腕力がなさそうだとは、疑ったことは一度もないから。

 【千愛理は、そういうのを全部無視して、僕の中に入り込んできた】

 "千愛理の目は見ない方がいいよ。何もかもを映し出す鏡みたいで、丸裸にされるから"

 【まるで魅入られたように、彼女を見つめる事で自分を見た。正当性があった筈なのに、過去が白じゃなくなった】
 【ルビさん…】
 【でも、見たくない過去から逃げる事も、千愛理は決して許さなくて】

 ここで、初めてルビさんが俺の目を見た。


 【僕も、――――――千愛理に捨てられた事があるんだ】
 【――――――え?】
 【見放された、というべきかな】



 見放された――――――?

 千愛理さんがルビさんを見放したって事…?


 水がどこかに吸い込まれ、どこからかまた注がれる循環の音だけが辺りに響く。
 何かにぶつかっては乱反射するルビさんの声が、知らないもののように聞こえた。

 【あの頃の僕は愛し方を間違えて、そして求め方も違っていたから】

 立ち込める湯気の中でなお光る琥珀が懐かしそうに横に細くなる。

 直ぐには信じがたい話だ。
 千愛理さんが自由に仕事をしている事も、ルビさんがそれを後ろから見守るスタンスも、その二人の関係性は、元来の相性から出来ているもので、そんな風に複雑な背景があったなんて。

 【これも、…意外だったかな?】

 ふふ、と笑うルビさんに俺も釣られて眉尻を下げる。

 【正直、そうですね。すごく…】

 それに応えるようにルビさんはもう一度口角を上げたかと思うと、音にして短く息を吐《つ》いた。

 【だからきっと、僕ならたくみの慰めにも励みにもなるんじゃないかと思って会いに来たんだけど――――――でもどうやら、君が抱えている問題はそれ以前の事みたいだ】
 【…え?】

 俺が抱えている問題――――――…、


 【たくみ

 湯の表面を震わせて、ルビさんが俺へと体を向けてきた。

 【人の愛は、こうして触れるより先に、まずは目に入れる事を覚えないと】

 ルビさんの手から、水が掬われては流れ落ちていく。

 【見えない振り、見ない振りをしていても、寂しさが募るだけだと思うよ。自分の中にずっと偽りを飼うのと同じ事だから】

 ヘーゼルの瞳が、問うような強さで俺を見て、

 …存在を丸裸にするのは、千愛理さんだけじゃない。
 ルビさんも、その威力は十分だ。


 【それは…】


 "愛を見ない振りする事は、自分の中に偽りを飼うのと同じ――――――"


 【…それは俺が、何も、見えてない――――――そういう意味ですか?】

 縋る気持ちなのか、それとも微かな怒りの気持ちなのか。
 混乱を始めた感情が胸の中で騒いでいる。

 そんな俺を躱すように、ルビさんはお湯の中でゆったりと重ねた足の上下を組み替えた。

 【どうかな。でも、こうして僕を行動させた咲夜さくやの愛は、ちゃんと伝わっているよね?】

 それは、頭の片隅で既に解っていた答え。
 突然の会社からの休暇取得命令といい、そのタイミングでルビさんが現れた事といい、この巡りをただの偶然と受け止めるほど思考力は落ちていない。

 【僕も、たくみは弟のように大切に思っているよ。千愛理も。もちろん、それも伝わっているよね?】
 【――――――、…】

 何かを言葉にしないとと思いつつ、結局何秒経っても紡ぐ事の出来なかった俺は、仕方なく唇を噛んで頷くだけで答えを見せた。
 するとルビさんもまた、小さく頷き返してくれる。

 【うん。僕達にはちゃんと伝わっているよ。こうして何年も付き合いが続いているのはその証だし、今ここに僕とたくみが一緒にいる事も、その証明。僕達は人としてちゃんと繋がっているし、つまり君は、決して人の愛を知らないわけじゃない。――――――でもどうやら、"家族の愛"は苦手みたいだ】

 息継ぎが入ったそのセリフは、

 【ルビ、さん…】

 声の大きさには比例せず、俺の心の底にずしりと落ちた。

 【一生ものだとは思えない友人や知人は切り捨てるのは楽だよね。適当に上辺だけで付き合って、自分の中でだけすっぱりと切り捨てていけばいい。大人になるほどその選択は容易になって、お互い無駄に傷つくことは少なくなるけど、逆に家族との関係性は、年を重ねるほど難しくなる】
 【…】
 【――――――ああ、そうか…】

 ふふ、と。
 ルビさんが突然、声にして笑いをこぼした。

 【初めて君に会った時から、ずっと不思議だったんだ。どうして君の事がこんなに気になるんだろうって。うん。その理由がいま漸《ようや》く分かったよ】
 【え?】

 困ったようなルビさんのその表情は、これまでに見た事がないもので、

 【君は、僕の母に似ているんだ】
 【……ルビさんの?】
 【うん。――――――とても、愛される事が下手だった人だ】


 下手だった人…過去、系…?


 【まあでも、今は言葉でも体でも全力で愛してくれる人が傍にいて、ちゃんと受け止められるようになっているけどね】
 【え?】

 反応して目を見開くと、ルビさんの口角が更に上がっている。

 ……この人は、

 【…絶対にわざとですよね、その言い回し】
 【はは、良い返し。思考に血が巡ってきたかな?】

 うっすらと汗をかいたルビさんの顔は、何故か満足気で、


 【ならもう、慰めはいらないか】
 【どうしてですか】

 思わずムッとしてしまう。

 【慰めてください。ぜひルビさんの全力で】

 ここまで盛り上げておいて放置とか、ちょっと拗ねるぞ。


 【僕の慰めがなくも、君はきっと愛をする事が出来るからだよ。僕や千愛理からの好意を受け取れるように、時々はそうやって、拗ねた顔を見せるように、ね。でも咲夜さくやには、もっと深い関係性を証明してあげるといい。きっと喜ぶと思うよ。土方さんも、軽い気持ちで後見人になったわけじゃないし、それを見守ってきた夫人も、タスクもね。どちらかと言えば、君から立てかけられたファイアーウォール、《心の防御壁》をどう突破すればいいか、ずっと模索中なんじゃないかな】
 【…俺は】

 客観的に自分を振り返って見ても、本当の自分でいられたのは、ユキの前だけだった。
 ずっと過去の、幼い頃まで遡っても、誰かの顔色を見て自分の有り方を造る事に、一つの形式美のように捉えていたかも知れない。

 【自分を100晒す人間はきっといない。でも、今までとは違う君の顔で、関係を進めてあげるのも、一つの愛だと思う】

 そういう視点でなら、俺も、少しずつなら、変わっていけるんだろうか。


 伯父に、伯母に、佑《たすく》といずみ、――――――そして叶うなら、雪にも、もっと…。


 【誰しも、壊したくない世界の扱いほど、慎重になるものだけど、より良くするには会話や疎通が要るんじゃないかな。――――――僕もまだ、そこに辿り着くまでの真っただ中だけど、…きっとそのアイデンティティ、《在り方》を探す事が、人の時間を重ねる意義なのだと、最近は思うよ】

 ルビさんの話は、哲学的で複雑で、

 でも、正解のない人それぞれぞれの答えを表す言葉としては、とても素直に受け止める事が出来た。


 俺にとって、

 生きていくための、俺を象る意味やアイデンティティは、何だろう――――――。


 【俺に…、出来ると思いますか?】
 【ん?】
 【誰かに、愛される、――――――それを、選択する事…】


 雪――――――。


 【愛されない事を、受け止める事…】

 徐々に小さくなる俺の声を、ルビさんはちゃんと聞き取ってくれたようで、


 【出来るよ】

 伸びてきたルビさんの手が、俺の頭をごしごしと撫でる。


 【言ったでしょう? 愛は水だって。――――――人間の体は大人でも半分以上が水分で出来ているんだ。つまり人は元来、愛を知る生き物なんだよ。動物と違って、それぞれの煩悩が弊害として個性に現れるだけで、ね】
 【ルビさん…】
 【大丈夫。君が持っている愛が深いからこそ、他人からのその格差に傷ついて、きっと臆病になっていたんじゃないかな。だから、】



 "たくみなら、きっと出来るよ――――――"


 琥珀《ヘーゼル》の眼差しで放たれた言葉が、まるで刻印のように俺の中に入ってきた。





 それから二泊三日。
 俺はルビさんと効能の違う温泉をお世話になった旅館の施設内で存分に楽しみ、夜はコース料理、お昼は観光地へと足を延ばして名物に舌鼓を打ちながら、出会うものに流れを任せてただゆっくりと時間を過ごした。

 そこで何気なく宣伝ポップが目についたのが、オンランで今季ナンバーワンだったという、掌サイズの瓶に詰められた金平糖のカラーネーム。

 月灯り、風の香、せせらぎ、春だまり、――――――そして、


 『雪灯り…』


 雪灯り。

 その響きが、俺の中に深々《しんしん》と染みる。


 ああ、そうなんだと、しっくりきた。

 俺にとって、雪はそういう存在なんだ。


 柔らかな雪灯り。

 帳の降りた薄暗い世界の中、仄《ほの》かに灯った優しい光。


 もしも、孤独な雪景色の中で生きるのが俺の人生だとして、けれどただ一人、そのルールを司る何かが、誰かを添わせてもいいと許してくれるなら、

 共に横たわって共に沈む相手は彼女がいいと、心から願える、特別な存在。


 【――――――溶けて、二人で水になれば、一つの愛になれるのかな…】

 "雪灯り"を手に呟いた俺に、ルビさんが笑う。


 【そのフレーズは美しいね。これまで聞いたたくさんの愛の奏《かなで》の中で、僕の心に一番響いた、人生の終末に願う希望のタイトルだ】

 さらりと紡がれた称賛に、胸が震える。


 【買うの?】


 伝わるだろうか、この願いが。


 【…思いっきり避けられてるから、渡せないかも知れない】


 届くだろうか、この想いが――――――。


 【ホワイトデーは?】


 ホワイトデー?


 【たくみはマイスノーをあげたんだよね? 彼女からは貰わなかったの?】
 【チョコは貰ったけど…】

 今のこの状態で、ホワイトデーなんてあからさまに意味を持つイベントのアイテムを、雪が受け取ってくれるとはとても思えない。

 【職場ではどうなの? 日本なら義理チョコとかグループで――――――】
 【――――――あ】

 そう言えば、いずみから貰ったのに雪の名前が連名で入ってた筈だ。

 【それが糸口になるかもね。何もしないよりは、チャレンジする方がずっと良いと思うよ。…金平糖か。僕も買おうかな】


 言いながら、ルビさんが手に取ったのは風の香《か》。
 ルビさんにとっての千愛理さんは、この中なら"風"なのか――――――。


 【チャレンジ――――――してみます】
 【うん】


 いずみを筆頭に、思い浮かぶ人達に合わせて次々とカラーを選んでいく。


 進もう。

 少しずつ。


 愛しても、愛されない事に泣くのは、俺だけじゃない。


 すべてを口にしないだけで、似たような葛藤を誰もが抱えているんだと、ルビさんの表情の向こうに感じられたから。









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