小説:食べられる花


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Episode:資


 ――――――
 ――――

 『え、――――――咲夜さくや?』


 ルビさんに送られてマンションに着くと、俺を出迎えたのはエントランスのソファに座っていた咲夜さくやの姿だった。
 その脇にはシャンパンゴールドのスーツケース。

 『お帰り』

 俺を見留めた途端、ハンドルにかけられたモバイルバックへとPCを戻し、ファスナーを締めながら立ち上がる。

 『咲夜さくや、どうしたの? 予定より早くない? 空港から直接きたの?』
 『矢継ぎ早だな。まず二つ目、予定より早い。二日巻いた。三つ目。社に寄ってきた。野暮用があってな』
 『野暮用?』
 『会って確認しておきたい事があったんだ』
 『ふうん?』

 真玉橋さんかな。

 『で、一つ目。お前の顔を見に来た。――――――思ったより元気そうで安心した』
 『…咲夜さくや、止めて、その目』

 陽が沈もうとする光の塩梅の中、秘匿感溢れる美形に微笑まれる事の破壊力。
 数日前の弱り切っていた俺なら、この瞬間に手を伸ばして別の道に進んでた気がする。


 『みんな心配してるぞ。前回もそうだったけど、今回はそれ以上だって、携帯が次から次へとメッセージを受信しっぱなしだ。顔を見せて安心させた方がいい』
 『…ん』


 ユキが死んでしまった後も、俺はきっと少し前までの屍のような醜態を晒していた。
 自分ではうまく振る舞えていたつもりだったけれど、

 咲夜さくやが、
 亜希が、
 俺のユキに対する依存性を見て知っていた七緒ちゃんやなっちゃんが、

 笑顔で食事を詰め込んではトイレで吐く俺の様《サマ》を、
 問題なく眠れている振りをして作ってくる目の下の隈を、

 腫物のように見守ってくれていたんだという事を、今更ながらに理解する。


 『――――――前に、咲夜さくや、俺に言ってたよね。"前に進め"って』

 スーツケースのキャスターを回して歩き出そうとした咲夜さくやへと投げかける疑問。

 『もしかしてあれは――――――』

 リトアニアに行く直前、敢えて俺にそれを告げに来た咲夜さくやは、ユキと死に別れた事じゃない。
 立ち止まって過去の呪縛から抜け切れずにいた俺の事を、きっと当の本人よりも解っていた。

 『あれは、』
 『…今のお前にはもう必要のない言葉なんだ。なんでもいいだろ』

 エレベーターへと迷わず歩き出した咲夜さくやの素早さに、思わず声がでる。

 『え、どこ行くの?』
 『お前な、この状況に他の選択肢があるのか?』
 『いや、部屋に上がるのは構わないんだけど、何もないよ?』

 冷蔵庫には炭酸水が何本かあるくらいで、空に近い。

 『デリバ頼んだから問題ない。それ届くまでシャワー貸してくれ』
 『…まあ、ならいいけど』

 右手に持っていた金平糖入りの紙袋を持ち替えて、咲夜さくやへの土産がない事にふと気づく。

 『お土産ないや』
 『ならメシはお前持ちだな』
 『何言ってんの。俺を励ます為にスケジュール調整してわざわざ来てくれたんでしょ、咲夜さくや。こうなったら全力で盛り上げてよ』

 あ、なんか既視感な会話。

 『…わかった』


 だからって、食事の他にリカーショップにお酒頼むとか、規格超えすぎ。
 まあ、しばらくはビールに困らなさそうでいいけど。




 咲夜さくやの黒髪には2仕様ある。
 一つはウィッグ。
 もう一つは染髪。

 ちなみに金髪の方にも2仕様。
 一つはウィッグ。
 そしてやっぱり染髪。

 一カ月先のスケジュールを見越して、どちらかの色をベースにウィッグか染髪で対応していて、


 【こら、ちゃんと乾かしなって】

 どうやらさっきの黒髪はウィッグだったらしい。

 確かに、ロランディとして飛行機に乗り込み、空港から直接来たんだとしたら、機内では金髪だった筈だ。
 社に顔を出す為にウィッグを着けたのかと頭の隅で考えながら、目の前に座ってビールを飲みだした咲夜さくやをよそに、さっさとドライヤーを取ってくる。

 【ほら、ちょっとテーブルから離れて】
 【…時間が経てば乾く】
 【咲夜さくや、お前の髪をケアしてくれてる人達がそれ聞いたらまた泣くよ】

 俺の言葉に、む、と咲夜さくやの口角が下がった。
 今月は黒、次は金色と、これだけ染色を繰り返しながら、皆無ではない筈のダメージに打ち勝ってその艶を保っていられるのは、咲夜さくやに専属でついている美容チームのおかげだ。

 【咲夜さくや?】
 【…わかった】

 並べられているデリバリーフードから椅子ごと距離をとらせて、フェイスタオル片手に咲夜さくやの髪にドライヤーをあてる。
 パブリックスクールでも時々こうして世話をやいていた事を思い返せば、ユキに構うのと同じくらい、この時間が好きだったと気付く。


 【…幸せだったんだな、俺】

 ルビさんの言う通り、見ようと思えば、きっともっと、俺の世界にある温かいものが目に入るのかもしれない。



 滴を含んで少し濃く映っていた黄金が、透き通るような金色になった。
 ルビさんのクリーム色に近いふわりとした質感とはまた全然違う、しっとりとした色合いの金髪を指でかきあげた咲夜さくやは、コンタクトも外して、懐かしさすら思う本来の姿に戻っている。


 【ルビさん、元気だったか?】
 【うん、相変わらず忙しいみたいだけど、調子は良さそうだったよ】
 【そうか】

 ほんの少し、気まずそうな表情が動いた眼差しに読み取れた。

 【楽しかったよ。ルビさんも、久しぶりにゆっくり出来たって言ってた】
 【なら良かった】

 詳しくは知らないけれど、俺の世話を頼んだ経緯に、何かしら思う事があったらしい。



 【――――――もう、大丈夫なんだよな?】


 お互いに、小さな瓶ビールを二本ずつ空けてウィスキーに切り替えた頃、咲夜さくやが徐に訊いてきた。
 疲れが手伝ってか、いつもより早めに酔ったらしい雰囲気が、青の眼差しに窺える。

 【うーん、…大丈夫って言うか、…どうなんだろう?】


 ルビさんとの初日が峠だった気がする。
 湯から上がって食事を食べて、ワインと地酒を飲んでいる内にいつの間にか寝ていたらしい。
 翌朝は少し体がだるかったけれど、久々に胃液も逆流しない目覚めで、

 【すっきり、したかな】

 前向きになったって言うのとはちょっと違う。
 雪に嫌われてしまったらしい仄暗い気持ちは今もまだあるし、そこから影を失くすほど、輝くような未来が見えているわけでもない。

 ただ、あの日を境に、物凄く気分がすっきりしてる。


 【すっきりね…】


 カラン、と。
 咲夜さくやの手の中でグラスが揺らされ、氷が崩れる音がした。


 【――――――まあ、酔った勢いであれだけぶちまければな】



 ――――――え?






 【え…、っと、咲夜さくや…?】



 ぶちまけたって何?

 【俺…咲夜さくやと話し、た…っけ?】


 信じたくないという気持ちをこめて尋ねれば、咲夜さくやの青の目が意味ありげに細められる。


 【気にするな。そう大したことじゃなかったよ】


 お願いだから、言いながらワイングラスと一緒に笑顔傾けるの、やめて。
 嘘ですけどーって物語ってるから。

 内心、地の底まで落ちながら、冷静さを装って勇気を振り絞った。


 【い…いつ?】
 【初日の真夜中】

 まったく覚えがなく、

 【えっと、…俺、何を…】

 一体、どんな"大した"ことを口にしたんだ?


 【――――――そうだな】

 青の目が、左へと移動した。

 ビジネスの場では決してあり得ない咲夜さくやの仕草。
 こうして目が内情を表すのは、リラックスしている証拠だ。


 【いや、咲夜さくや、やっぱいい、思い出さないで】
 【そうか?】
 【うん、ほんとにいいから】


 知らないでいよう。
 絶対にその方が幸せな気がする。


 【…まあ、ほんとに大したことじゃないから、伝えるまでもないと思うよ】
 【うん】

 よし、飲もう。


 【"雪を二か月間苦しめた"――――――とか】
 【ぶッ】

 ワイン噴いた。

 【"俺に抱かれて死ぬほど悲惨な気持ちだったんじゃないか"――――――とか】
 【けほっ、こほ】

 ティッシュ、ティッシュッ、

 【"俺の関わった事で人生に絶望しているのかも"――――――とか? あとは――――――】
 【サク、もうやめて】

 恥ずかしさで息絶える。

 【気にするなよ。あんなに必死で他人を慰めたのは久しぶりだったから、面白かった】
 【…く】

 そう言えば…、

 【ルビさんが、珍しく声を出して笑っている夢を見た気が…】

 薄っすらと脳裏に浮かんできた映像に、ポツリと呟けば、

 【ああ、実際に笑っていたからな。貴重な映像だ】


 ――――――、


 【映像!?】
 【オレと、ルビさんのビデオ通話に、割り込んできたの、お前ね】
 【げ】


 酔った。

 目が回る。


 【…消して】
 【――――――心配するな。わざわざ掘り出しはしない】
 【でも消して】


 咲夜さくやの通信環境はいつもレコーディング状態。
 ブラックボックスだ。


 【消・し・て】
 【――――――わかった】

 意図的なのか、ただ酔っているからなのか。
 応えまでに空いた間がむちゃくちゃ気になるところだけど、反応すればするほど、切り札としてのランクが上がってしまうから、今は退いておいた方が得策だ。


 【でも、あれでお前がすっきりしたんなら、一時間も拘束された甲斐があるってもんだ】
 【え】



 一時間――――――。

 ロランディでいる時の一時間が、どれだけ貴重か、俺は良く知っている。


 【咲夜さくや――――――】

 その後のスケジュール調整がどれだけ大変だったか、想像がつく。
 それに加えて、こうして前倒しで傍に来てくれて――――――、



 "咲夜さくやの愛は、伝わっているよね?"



 【――――――ありがとう、咲夜さくや



 ほんの少しだけ、咲夜さくやの目が驚きに見開かれて、



 【――――――ああ】


 笑みで結ばれたその唇の形に、この表情すらも、俺はどれだけ見ない振りをしてきたんだろうと気付かされる。


 自分の貪欲さを隠す事にだけ必死で、
 だから上辺だけで人を対応して、

 見た目通りの王子様、誰にでも平等に優しい宮池たくみ
 楽だからと、誰かが定義した王子様にあてはまるように振る舞って、

 振り返れば、ただ意固地に、愛されなくても別に平気だと、そんな振りをしていた幼い自分だけが目に映る。



 変わろう。

 何をどうなんて、そんな具体的な事は言えないけれど、


 まずは、見せられて向けられる好意を、真っ直ぐに見て、受け止めるところから――――――。





 ――――――朝、部屋を出るといつものように隣のドアが開かれた。



 『たくみさん、おはよう、――――――あの』


 ユキが死んでからしばらくの間も、伯母さんは毎朝こうして俺の前に姿を現した。

 その行動が止まった時、なかなか応じない俺に愛想をつかしたんだろうと思っていたけれど、



 伯母さんの目が、何を見ているのか、曇りのなくなった今の眼《め》でなら、ちゃんとわかる。


 『よかったら、朝食を一緒にどうかと、思ったのだけど…』


 俺の顔色が改善されている事に気づいたらしく、ホッと安堵したのが力の抜けた肩の動きに見て取れた。

 きっと明日からは、朝食に誘う事は控えるんだろう。
 自分の厚意が俺に受け入れられない事を、伯母さんは長年の経験で知っているから。

 でも――――――、



 『今日は、本当に急いでいて無理なんですけど』
 『――――――え?』

 ああ、自分の声音が嘘みたいに、穏やかだ。

 それはまるで、ユキに囁いていたような、

 雪と、会話を紡ぐときのような、


 取り繕う上滑りのない、本当の素の声音――――――…。


 『明日は、ご一緒させてください』
 『…え?』
 『それで、あの――――――』


 まるで、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まっている伯母さんに、俺は勇気を振り絞る。


 『俺、コーンスープは、嫌いなんです』

 両親の葬儀に来た伯母さんは、キッチンのテーブルに並んでいたコーンスープの缶詰をみて、俺の好物だと勘違いしていたようだけど、あれはただ、食事の手間を省くために、母が注文して届けさせていた箱買いの残り。

 一人で食べる静けさに、あの不自然なほどに強い甘さと、ザクザクと耳に響く粒の崩れる音は、異様なほど強く記憶に刻まれていて、今でも、サラダに入っているコーンにさえ、僅かに鳥肌が立つ事もある。


 食べられるか、と聞かれれば、食べられるけれど、
 好きか嫌いか、と聞かれれば、食べたくないものでワースト1だ。


 『だから、明日は、伯母さんのお味噌汁――――――お願いしたい、です』



 初めて土方家に朝食に招かれた日、ワカメと卵の味噌汁は、泣きたくなるほど暖かくて、優しい味がして、


 けれどそれが、佑《たすく》の好物だと知った時から、何となく箸が進まなくなった。

 それからは、気を遣った伯母さんが、コーンスープを用意する事が増えて、それに比例して、俺も誘いを辞退する事が多くなって…、



 『私の、お味噌汁――――――で、いいの?』
 『――――――駄目ですか?』
 『…そんな事ないわ! そんな事な、』


 伯母さんの目に、涙が膨れ上がるのが見える。

 人の好《い》いこの人を、ずっとずっと、傷つけていた事実を思い知る。



 『――――――行ってきます』

 何だか堪らなくなって目を逸らし、逃げるように歩き出せば、

 『い、行ってら、…ぅ』

 嗚咽を交えた伯母さんの声が追いかけてきた。

 これまで悪かったなと反省を思いつつ、けれどどうしてか笑みが抑えきれない事については、ちょっと誰にも言えない感情だ。






 『あ、たくみ、おっはよー。ねぇねぇ、温泉に可愛い子いた? 浴衣の子、食べちゃった?』
 『おはよう。無事帰還できたようで何より。それ饅頭? お土産だよね、二個予約』
 『宮池君。こっちが今日中に処理が必要な仕事《タスク》だ。定時までには終わらせてくれ』

 姿を見せた途端、財津に目黒さん、真玉橋さんの順で声がかかる。
 ここでも、自分が考えていた以上に心配をかけていたんだと、

 お土産を披露する前から、なんで温泉に行ってた事を知っているのか。

 その謎は平穏の為においておいて、とりあえず、仕事で返そうと気を引き締めた。


 PCを開いて共用文書のアップデートを確認。
 その最中にOSの更新ダイアログとセキュリティオーナーの確認画面がうるさいくらい管理者IDを求めて表示され、たった五日間休んだだけでうるさすぎると内心で愚痴りながら黙々と仕事をこなす。

 重要なメールはスマホから社内ネットワークにアクセスして確認していたから大抵の至急対応は一時間くらいで処理完了。

 あとは――――――、

 午後のタスク・シミュレーションに思考が走りかけた時、社内チャットツールからポップアップが飛び出してきた。


 "お昼は外に出ない?"


 送信者は、水瀬いずみ。

 『…参ったな』


 人は繋がっているんだと、改めて教えられる。

 良いニュースも悪いニュースも、繋がりから伝わって、こうして思わぬ方向から還ってくる。


 物凄く、叱られるんだろうなと。

 そう思いながらも、有難い幼馴染にイエスの返事をする指は軽快だった。








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