いずみに指定されたのは、会社の最寄り駅前にあるビルの、ちょっと古びたエントランスからエレベーターで上がった4Fにある、知る人ぞ知るという称号が似合いそうな喫茶店。 シートの向かい合うボックス席がファミレスっぽいけど、その素材がビロード調だから、昭和の映画なんかでよくみるスナックっぽい雰囲気が漂っている。 流れているのはオルゴール旋律の洋楽オールディーズ。 外光を取り込むための窓は鈍いオレンジのフィルムが貼られていて、昼も夜も判りにくい店内だ。 けれど薄暗さとは違う、ちょっと背徳感が滲むような雰囲気がかえって新鮮に目に映った。 『よく知ってるね、こういうトコ』 先にホットティーを注文していたらしいいずみの前には、平たくも見えるティーカップと、青い小花柄のポットが一つ。 一杯幾らかは知らないけど、あと二杯くらいお替わりができそうな大きさで、 『佑《たすく》と時々使ってるの。ちょっと照明が低いから顔の判別付きにくいし、結構落ち着くのよね』 『まあ、…うん、そうかもね』 そんな言葉を交わす間に、囁くような声で『いらっしゃいませ』と現れたマスターらしき男性にホットコーヒーとクラブハウスサンドを注文すれば、いずみもピザトーストを追加してきた。 軽口を交わす二人の様子に、店の人と親しいんだと認識を上書きしながら視線を巡らせて、 『――――――あ』 テーブルのガラス瓶に入った角砂糖が目に入り、渡すつもりだったお土産を忘れて来ていた事に思わず声が出た。 『なあに、どうしたの?』 『お土産、忘れた』 『お土産?』 『うん。金平糖』 『金平糖?』 『ちょっと、週末は温泉行ってたから』 『――――――温泉…?』 スッと、いずみの眼差しから光が消える。 『ずるい…』 『え?』 『私が誘ってものらりくらり断って逃げるクセに、一体誰と行って来たって言うのかしら?』 それは、必然的に伯母さんが一緒だって解ってたからだし、佑《たすく》も拗ねるからだし。 『ルビさんと』 『と?』 『ルビさんと二人で』 『え、二人で?』 疑問符で投げられた言葉に無言のまま応えれば、何度か目を瞬かせた後、いずみが呆れ顔を前面に肩を小さくすくめた。 『ほんと、あなたがルビさんと知り合いだった事にもかなり驚いたけれど、その距離感にも改めて驚かされるわ』 『良く言われる』 社交界では、ラナンキュラスと謳われる華やかさを誰にも平等に振りまきながら、特別は数少ないと周囲に憧憬を集めるルビさんの、俺に対する扱いはかなり破格だ。 『――――――小母様』 ふと、いずみの声音が変わった。 『凄く喜んでいたわ。あなたが、初めて正面から自分を見てくれたって』 『…うん』 改めて言葉にされると、照れくささに身悶えしそうだ。 『昔から 『違うよ…。それは、俺の問題だったから』 『それはそうよ! 確かにあなたの問題! それでも、どうにかしたいって佑《たすく》は思ってたし、私も共感した。別に全部をどうにかしようなんて、そんな傲慢な事は考えてなかったわ。――――――でも、どうにかしたいとは、思っていたの』 『…解ってる』 『うん。私達も、判ってた』 頬杖をついて目を細めるいずみを、何故か直視出来なくて、思わず視線を逸らした。 『――――――あり、がとう』 心から、 『ずっと、感謝してた』 でもそれを伝えるタイミングを最初に気づいた時に逃して、それからずっと、見ない振りをして軽んじていたんだ。 伯父さんや伯母さんだけじゃない。 いずみと、そして佑《たすく》の事も――――――。 『…ふふ』 いずみが、堪えきれないと言わんばかりに、赤い唇を大きな笑みに象った。 『弟がやっと懐に入ってきてくれたって、佑《たすく》、きっと大喜びよ』 『大袈裟じゃない?』 『歴史があるの。自分を振り返って見なさいよ。その表情《かお》、なんだか憑き物が落ちたみたい』 『――――――そっちこそ』 言われっぱなしでなるものかと、意味を込めて言葉を返せば、それを受け止めた顔から表情が消える。 『…わかる?』 『それはまあ。長年近くで見てきた幼馴染みだし、――――――義姉《ねえ》さんだし?』 雰囲気を和ませようと言ったつもりが、 『…なんか、照れるわ』 いつもの務めて高飛車的な凛とした態度はどこへやら。 時々、佑《たすく》の前だけで放出されていた可愛い女子力が漏れ始めている。 『――――――仕事、辞める事にしたの』 "決意した女性の強さは、どんな刃物よりも鋭利で、そして美しいんだ。そうなったもう、どんな力でも、それを崩す事なんて出来やしない" いつだったか、ルビさんから語られた言葉が思い出される。 『佑《たすく》と結婚する』 それは、逃げ? 視線で問えば、いずみは真っ直ぐに俺を見返した。 『仕事、好きだったから、精一杯頑張ってきたつもり。大きな成果も幾つか出して、今手掛けてるプロジェクトも一区切りついた。来月再来月、仕事をしない自分を想像しても寂しくないくらい、気持ちにちゃんとケジメついてるの』 『どうして、急に?』 『――――――少し前に、ニューヨークで佑《たすく》、倒れて』 『え?』 『あ、直ぐにちょっとした過労だって診断されて、だから心配要らないわ。今は元に戻ってるし』 『そっか…』 廃人だった俺には、連絡する判断はなされなかったって事か。 情けなさすぎる。 『あの日――――――、佑《たすく》が倒れたって小母様から連絡もらって、直ぐ携帯にかけたら、元気そうだったし、大丈夫だって、本人もそう言ってたし…、……無事だってちゃんと確認できたのに、でも私』 細い息が、ゆっくりと吐かれた。 『――――――思い立って駆け付ける事が出来ない不自由さを、――――――仕事を、初めて邪魔だと感じた』 その言葉に、俺は思わず頬を緩める。 いずみはいずみらしく、煩わしいものをすべて取り払って、全力で佑《たすく》に向かおうとしているわけだ。 『だから未練は無いわ。今は、佑《たすく》の奥さんになって、その位置から、どこまでも一緒に着いて行ってみたいって、そう考えてる』 『おめでとう――――――は…、うん。また佑《たすく》と揃って報告が入った時にしようかな』 『そうね。 人生の、ターニングポイントって大袈裟なようでそうでもない。 何気ない選択の、その理由付けが変わった瞬間、その岐路が、後々にターニングポイントと呼ばれるんだと思う。 『そう言えば 運ばれてきたピザトーストを手にしたいずみは、不意打ちのように尋ねてきた。 『あ〜、うん』 俺と雪が、実は既に関係があった事は、どうやらまだバレていないらしい。 『どっちかって言うと、後退した方、かな』 『もう、何やってるのよ! 道理で彼女、食堂に来なくなったわけね』 そうなんです。 思いっきり視界からすら排除されてますからね。 『つまり 『そうですね』 『情けないわね。珍しくあなたが人間の女の子に興味持った感じだったから、ようやく人に成れるのかと期待していたのに』 『…人聞きが悪いから、それ。――――――美味《うま》ッ』 トーストされたパンに色んな具材が挟まれたクラブハウスサンドはなかなかの逸品で、これは亜希も好きそうだと感心した。 コーヒーも深煎りで味も香りも美味しいし、 心配かけた事を、そして色んな事を、うまく報告できればいいけど――――――、 『いいわ。私が会えるようにお膳立てしてあげる』 『え?』 『金平糖』 『金平糖?』 『あるんでしょ、お土産。武田や春日井の分は?』 いずみの親友であり、ライバルであり、そして俺を取り囲む防壁の役目も果たしてくれているメンバーの名前が出て、即座に頷く。 『もちろん。ホワイトデーも兼ねてるから』 『なら藤代さんのもあるのよね?』 『…それは、あるけど』 『いいわ。まずは仲直りからね』 『え?』 『いい? 前のトコまで距離が戻ったら、じっくり確実にアプローチしていくのよ。今までの彼女の反応から推測すると、あなた、完全にあしらわれてるんですからね!』 『…はは』 乾いた笑いしか出てこない。 雪との件は取り扱い注意かも。 プロポーズまでして振られたなんて知られた日には、武田さんや春日井さんも一丸となって、かなり騒がしくなる気がする。 『ちゃんと 『了―解』 前のトコまで距離が戻ったら、その日の内に苗字ごと食べちゃうんだけどなぁ。 その翌日。 いずみの行動は早かった。 ランチタイム直前にチャットで食堂へと呼び出された俺は、いずみの指示通りお土産の金平糖を手にやってきて、既にテーブルを広々と占拠している華やかな三人組から、これから雪が合流する予定なのだと口々に知らされる。 え? え? あんなに会えなかったのに、いずみが動いた途端、もう会える事になるとか、なにこの怒涛の展開は。 内心の動揺を背中の鳥肌に代えてぐっと耐えた。 『…藤代さんも、来るんだ。これ、渡せるなら良かった』 どうにかセリフを絞り出せたけど、目の下が痙攣してるのが判る。 『あーあー、強がっちゃって。背景描写があったらアレよね、点描。ピンク色の』 『バカな仮面被るから、いざ女口説く時に技がないなんて、 『二人とも、現実を突きつけたら可哀そうよ。これからの手腕に期待しましょう』 いずみが最後を締めたけど、納得いかないけど、こういうのは逆らったらより危険だ。 『お手柔らかに…』 言いながら椅子を引いて座れば、春日井さんが憂いを帯びた表情で溜息を吐いた。 『それにしても、これで水瀬も、ドクジョ戦線離脱かぁ』 毒女戦線? 『ふふふ。武田と春日井はまだまだ突っ走る気なんでしょ?』 『当たり前じゃない』 『今のところ、嫁に行く宛もないしね』 『ごめんね。途中離脱』 『いいわよ。独身で仕事続けるのをステータスにするための土台作り、始めたのは私だし』 『最初は腰掛のつもりで入社した私も、気が付けば役員を手玉に取るのが楽しくて賛同しちゃったし』 独身で仕事続けていくのをステータスに――――――。 …独身女性のドクジョか。 そう言えば、ウーマンリブの面白い視点を作り出してる社員がいるって、 見た目のフル装備にこだわる割には、仕事が出来る上に男っ気がまったくない、そのギャップが謎だったけれど、そういう協定のもとに集っていたのか、この三人。 いずみを中心に、それなりにしか相手しなかったから、 『気づかなかった』 ポツリと呟けば、いずみはにっこりと笑う。 『私達だけじゃないわ。まだまだいるわよ』 『そ。勢力は着実に広がりつつあるの』 『途中で挫けそうになった時もあったけど、ちょうどその頃にやってきた社長が超のつく愛妻家で、強力な後押しだったしね』 伯父さんなら確かに、黙して活動を肯定したんだろうな。 けれど残念な事に、その理由は伯父が愛妻家だからではなくて、使える者は性別関係なく使い倒す人だから。 …佑《たすく》は、敢えていずみにそれを説明していない気がする。 『――――――あ、藤代さんよ』 春日井さんの声に、思わず顔をあげて反応してしまった。 武田さんの噴き出すような笑いが耳に入ったけど、気にしない。 ――――――雪…。 珍しくオドオドとした様子で食堂に入ってきた雪は、その手には大盛りのカレーライス。 『…』 そんな華奢な体に、驚きのアンバランスな量。 見慣れていたのに、新鮮に目に映る。 『良かった、藤代さんも来てくれたんだね』 精一杯の笑顔でそう伝えれば、目を合わせないまま雪が答えをくれる。 『先輩方が熱心に誘ってくださったんでぇ』 そして、俺から一番遠い席に落ち着いてしまった。 『…そうなんだ。でも助かったよ。藤代さん、なかなか捕まらないから』 今日はまだ初手だ。 また糸を繋ぎ直せたから、これからどうにもプランは立てられる。 まずは、適度な距離でまた馴らすところから――――――。 『それじゃあ早速だけど、これ、バレンタインのお礼』 紙袋から取り出してテーブルにパッケージされた透明な箱を並べていく。 『ありがとうございますぅ』 一瞬だけ、雪の視線と目が合ったけれど、執着を知られないように直ぐにそらした。 『金平糖…?』 ほんの少し表情を緩めて、雪がお土産の中身を気にしている。 『あら、これ、いま人気の庵の金平糖ね』 いずみが話題を広げてくれた。 『さすが水瀬さん、よくご存じで』 『私も知っているわ。確かバレンタインの翌日には予約完売したんでしょ? 役員の誰かがすごく残念がっていたのよね』 『可愛い〜、見せて〜』 あ、良かった。 思った以上に喜んで貰えているみたいだ。 『これが水瀬さん、こっちが武田さん、春日井さん――――――で、こっちが藤代さん』 意識して、指先で雪の方へと箱を押しやれば、やっぱり雪は唇半開きで俺の指を見ていて、 …なんでこれ、持ち帰れないの、俺。 『…』 ――――――平常心、平常心。 まだ馴らし一日目だぞ、 ユキが愛しかった。 新雪のような白の毛並み。 一度見たら忘れられない大きな黒の目。 伸びをした時のしなやかな背中のラインも。 丸まった時の尻尾の先までのラインも。 機嫌悪く俺を見上げる仕草。 額を手の甲にあててくる仕草。 恋人のように、家族のように、寄り添って、距離をとって、全身で俺にぶつかってくるユキが、とても――――――。 『可愛い…』 ニコニコ語尾伸ばしで話しているのに、引き攣りで頬がぴくぴく動く雪が垣間見えて可愛い。 お姉様方の前で、俺との過去の関係をバレないようにと気を遣っている様子が隠せてなくて可愛い。 けれどそんな雪の心理状態には誰も気づいていなくて。 俺だけが本当の雪を知っているからこそ気づいているんだという事実に高揚する。 『死にそう…』 すぐそこにいるのに、好きな人に触れないこの現状。 『恋って何? 片思いって何? 地獄だよね。拷問だよね。そこにいても抱きしめる事すらできないんだよ? ――――――涙出る』 愚痴りながら机にうつ伏せた俺に、向かいのソファで寛いでいた亜希から小さく笑いが漏れる。 『酔うの早くない? 『なんかいつもグラグラしてるから素面の時と区別できない』 『あぶなっかしいな〜』 そう言った亜希から、包みが開けられる音が聞こえてきた。 『でもさ、声すらかけられないで終わる恋もあるからね。そういう意味で言えば、定期的に顔を合わせて、二人きりじゃないけどご飯も一緒に食べる事が出来て。雪ちゃんの色んな表情を近くで見る事が出来てるんでしょ? それでも、雪はこの腕に抱いた事がある存在だ。 知らなければ、今見ている作られた笑顔だけで満足して済んだかもしれない。 でも俺は、もっと違う雪を知っているという現実に囚われて、押し付けるだけの行動が走り出しそうになってしまう。 『まあ、 …そうでした。 『 『…似た者同士で片づけられるのは、ぜんっぜん慰めにならないから、ストップね』 『はは、了解了解』 見た目も将来性《バリュー》も、自惚れじゃなく客観的事実として、結構ポイントが高いと評価されてる筈の俺達が、やけに遠回りな恋に出会っているのは何かの呪いか陰謀か。 『――――――そう言えば、 亜希が、既に零時を過ぎた事を知らせている壁にかかった時計を見てそう言った。 『確かに』 携帯を見ても、特に新しいメッセージは入っていない。 ロランディから配されたボディガードが付かず離れず動向は見守っているから危険《リスク》は無いけれど、 『何も連絡がないってのはちょっと気になるね』 亜希の言葉にまったく同感。 『部屋にいるなら寝落ちってのもありそうだけど、ここに来る前に駅前の方に出るって言ってたから――――――』 口にしながら状況を気遣うメッセージを短めに作成して送信。 『――――――亜希、ビールどうす…』 顔をあげて、思わず言葉が止まる。 『え、ナニコレ、シチュエーションリスト?』 げ、どこから出てきたそれ。 『ちょ、待って、亜希』 テーブル越しに身を乗り出して手を伸ばし、ガチャンと派手な音をお腹の下から聞いた。 『うわ、 『え、待った、タイム!』 『早く拭いて!』 『じゃなくて、亜希! 見るのストップ!』 『まさか。今日は朝まで楽しもうね、 にんまりと笑った亜希に、心の中でむっちゃくちゃ雪に謝罪した。 |