『ねぇねぇ、さっきすっごいの聞いたんだけど』 部屋に入ってくるなり、財津が珍しく真剣な表情でそう告げた。 『って言うか、まだ顔色良くなんないね〜 『ほっといて』 夢見が悪かったって話は、触れてほしくないからの先手で真っ先に伝えたのに、気遣いという名でガンガン刺してくる。 『ドリームキャッチャーとか贈ろうか?』 『要らない』 『ああいうのも侮れないんだよ?』 冒頭からすっかり話題が変わってしまっている事に、本人はまったく気に留めてもいない様子だ。 ―――――― ―――― 『 レストランのピザを2枚、差し入れとして持ってきた亜希が、うち1枚をかかげて聞いてくる。 『あ、伯母さんトコに持ってくのは頼みたい』 そう答えれば、焦げ茶の瞳がスッと細められた。 『ふふ、了解』 楽しそうに、出番が少ないオーブンを開けて作業を始めた亜希に、何となく照れて早口になる。 『いずみから話聞いて、ずっと食べてみたいって思ってたみたいだし、今日亜希が来るって言うから、ついでに頼めたらって、だから別に――――――』 『うん、美味しいからね、うちの』 『…』 これ以上、何を紡いでも恥ずかしい気がして、テーブルの上に置いたままだった資料を下の収納ラックへと片付ける事に意識を向ける。 『…そう言えば亜希、前に見たリスト、どこに置いたの?』 『ん? 見つかんない? 記憶うっすらだけど――――――うーん、ファイルとかバインダーとか、そういうのに挟んだような…』 『会社に持って行ったヤツは全部チェックしたんだけど見つかんなくてさ』 『シュレッダー?』 棚の端っこにセットしてある簡易シュレッダーを示した亜希に、俺は首を振った。 『細切れ具合の性能良すぎて確認できず。まあ、それが確実なら一安心だけど』 なにせ、遊び心満開で雪におねだりしてもらったリストだ。 出来るところまで堪能したら処分するつもりだったけど、活用する機会が失われて、この前亜希に見つけられるまで、存在すら忘れていた。 あれを見られたら、はっきり言って常識人にはかなり引かれると思う。 財津は嬉々として詳細を聞いてきそうだけど、目黒さんは無言で一蹴…真玉橋さんは、一笑に付すって感じかな。 『オレの後に誰か来てないの? この部屋』 『んん、――――――ああ、 でもあの時はUSBと――――――ああ、そう言えば、技術展示用のポスター案、 『ビンゴ?』 俺の表情から察したのか、カウンターキッチンの向こうから首を傾げる亜希に、数回頷いて見せた。 『――――――後で聞いてみる』 『うん』 返事をしながらオーブンを操作した亜希は、ふと思いついたように言った。 『そう言えば、今確認とってるとこなんだけどさ、情報の確度次第では、進展があるかも。 『 『うん、 『あぁ…』 もしかすると、もう想いは吹っ切っていて、 けれど、俺もちゃんと 長年、叶えようもない片思いのサマを見てきている側としては、そうそう諦められるわけないと考えながらも、 それでももし、漸く諦めようと決心して 『――――――いい話?』 間をおいて尋ねれば、 『どうだろ。オレもまだ、ちょっと計りかねては、いる。うん』 少し視線を逸らして、何かを考えるように手を唇にあてた亜希は、けれど直ぐにそれをやめた。 『でも、もしオレが掴んでる情報がほんとなら、今の 自信満面で笑った亜希に、俺は『期待してる』と応えるだけで留めておいた。 王子とその取り巻き。 我が社の女子代表と言えるいずみと春日井さん、そして武田さん三人が率先して作り上げた図式が、俺と雪の適度な距離を保つ役割をうまく果たしてくれている。 仕事以外のミーハーぶりを目立たせて、俺を敵と見做せない弱い男達が煩わしく食いついてこないように。 そして俺には、三人を敵に回してまで、軽い気持ちで迫るような女の子達を近づけさせない為に。 「それじゃ、またね、藤代さん」 エレベーター前でそう言えば、雪は相変わらず作った笑顔で頷いた。 「また来週あたりチャットするわ」 いずみの言葉に、今度はペコリとお辞儀を返してくる。 「はあい。失礼しまぁす」 左右に髪を揺らしながら去っていく後ろ姿を横目で見送って、 「…はあ」 短い息を吐けば、いずみが唇を斜めに仁王立ちになった。 「――――――情けないわよ、 「…言わないで」 情けなく、顔を片手で覆って更に深いため息を吐けば、背中をバシッと叩かれて箱の中に誘導される。 「おかしいわねぇ。藤代さん、満更じゃないって、そう思ってたんだけど」 「…なるようにしか、ならないよね。これが現実」 「もう、ほんと情けない」 片眉が顰められたことで、咄嗟に危険回避。 「俺の事より、婚約についてはいつ発表する予定?」 すると思ったより効果覿面で、 「え? 佑《たすく》から聞いてない?」 「何にも」 ご機嫌な声音に俺が首を傾げれば、いずみは5のボタンを押してから堪りかねたように噴き出した。 「ふふ、信じられる? 社内報で結婚をほのめかすところから始めるんですって」 「…本気?」 「本気みたい。冊子はもう刷り終わってるから、そろそろ人の口に戸が立てられないって見本が始まるんじゃない?」 ほんの少し、困っているような表情は窺えるけれど、拒否反応があるわけじゃないらしい。 「――――――…いずみを、守るためだよね」 いずみと佑《たすく》の馴れ初めなんて、社外の、特に学生時代から付き合いのある人間なら知っている。 その人達とうちの社員との繋がりが皆無だなんて、世間はそう広くはない。 今回の結婚というゴールへの道のりが、いかに長い佑《たすく》の恋物語であったのか、先行してそれを走らせる事で、御曹司を待たせ続けていた傲慢な女だと悪く捉えられないように印象操作を実行中。 一部の男には、高飛車で高慢ちきな女だと、仕事ができる分の妬みを添えられて噂されているのは事実だから。 「私の演出力の賜物よ」 「よく言う」 俺が笑ったのと同時に、いずみの部署があるフロアへとエレベーターは辿り着いた。 「それじゃね」 手をあげて歩き出したいずみに、俺は言った。 「変わったよね、いずみ」 「――――――そう?」 惚《とぼ》けた調子で返した後、けれど思い直したのか、にっこりと、いずみは笑った。 「私もそう思う。ますますいい女になったわよね」 さすが。 まるで舞台の暗転のように、いずみの姿が閉じられた扉で遮られる。 「そっか…」 一人になった静寂の中で、急に思考が収束した。 二人の婚約が表に出れば、きっと結婚式まではあっという間だろう。 結婚祝いは何を贈ろうかと考えていたけれど、いずみには、マージュ・ケリのブライダルエステコースでもいいかも。 こういう時、使えるコネは活用して全力で使う事を俺に教えたのは、そのマージュ・ケリの息子であるルビさんだ。 「ルビさんにお願いしてみるかな」 こういう人生の楽しみ方も、以前とは少し違っている。 俺も、少しずつだけどまだ成長出来ているのかもしれない。 ―――――― ―――― ふと、キーボードを長く打っていた それに気づくくらい、今日の 「―――――― 「え? ああ、いいよ。ちょうど区切りいいし」 少し前までなら、 「ねーねー、 珍しく先頭を切って歩き出した 「そうだね」 「以前なら 「俺に聞かない。ほんとに情報ないから」 「ええええ? じゃあさじゃあさ、真玉橋さんは絶対知ってる筈だよね?」 「その答えも、さっきと同じね」 「 「はいはい」 こと恋愛に関して、 俺もそれに慣れているから、根掘り葉掘り共有を迫ろうとは思わない。 ただ、俺が実際に確認した位置情報から推測できる状況と、真玉橋さんが全体を完全に否定しないって事実を合わせて、誰か相手がいるのは確かなんだろうと想定しているだけ。 その存在が、どれだけの重みを持つかはおいておいて。 「んんん、モヤモヤするぅぅぅうう」 財津の地団駄に、同調出来る自分がいる事も確かだ。 食堂の入り口に差し掛かると、 間違いなく、 「…」 もしかしたら、今は想いが二分しているタイミング…とか? その彼女の事も朝まで離せないくらいに気に入っていて、 けれど、長年思ってきた 「あれぇ、藤代さんじゃん。今昼休み?」 雪にまっしぐら、でもあるけれど、半分は 「やだぁ、 愛想笑いと適当な声音でそう言った雪の向かいで、 こっそり 「…」 席には余裕あるし、この流れで俺達が座ってもおかしくないよね。 「カツ丼美味しそうじゃーん。ここ一緒していい?」 何となく財津風。 軽くそう尋ねれば、ビクッと ――――――あれ? なんか、警戒されてる…か、もしかして嫌がられてる? その空気を察知したからには、次の言葉をどうしようかと考えた瞬間、雪がうまく助け舟を出してくれた。 「えぇっとぉ、実は今、女の子同士のお話し中でぇ」 「あ〜、女の子同士の内緒話かぁ」 …いつの間に、こんなに 「なら無理にはお邪魔出来ないかなぁ」 「さすが 「…でしょ?」 …そのイケメン、ポイっと捨てたのは君ですけどね。 「君が早くこの魅力に陥落してくれるといいんだけどなぁ」 「やだぁ、そんな事口癖みたいに言うからぁ、会社中の女の子が本気にして騒いじゃうんですよぉ」 本気にとって欲しい人には、全然効かないから意味ないし。 …好きだけど、なんか、こういうやり取りすらも、もう空しい。 どうして雪は今、俺の彼女じゃないのか。 どうして俺は、今雪に触れることが出来ないのか。 考えても変わらないことを、願望のように考える。 片思いって、打たれ弱い人には絶対限界あるよね。 いろんな意味でパワーが必要。 …これを何年も続けてる だからこそ、ほんの少し、 ――――――ふと、 俺の視界の隅で雪が動いた。 "こいつってば、まだ西脇さんが好きなの!?" いつかのセリフがオーバーラップして聞こえた気がして、俺は曖昧に苦笑を返した。 人生の転調は、大抵が前触れもなくやってくる。 【 「…」 徹夜明けの俺に何かのお誘い? 時間を見るとまだ一時間くらいしか寝ていなくて、 「…んんっと…」 枕に顔半分埋めたまま、スマホを操作。 【特にないよ】 送信。 「…」 既読がついたからしばらく待ってみたけれど、続きは無し。 どうやら急ぎじゃないらしい。 「おやすみ」 お休みスタンプを返して、画面オフ。 「あ…」 もし家に来るんなら、食べ物持ってきてって書けばよかった…な…、 瞼がどんどん重さを増してくる誘惑に逆らわず、再び眠りの海に潜ろうとしたら、 ピンポーン。 今度は玄関のチャイムが鳴った。 タイミング的に、 「 「はあい」 立っていたのは、 「…休み?」 「そう。んふふふふ」 笑顔の傍でひらひらと返す左手の、薬指に光る指輪。 輝きを乱反射させる透明な石。 あー、なるほど。 「昨日?」 「そ」 「おめでと。――――――じゃ」 にっこり笑って暗黙で次の言葉を拒否したつもりだったのに、 「おデートしましょ?」 「…いずみ、俺、徹夜明け。まだ全身しびれてる感じ」 「仮眠はとったでしょ?」 「一時間ね」 「クイズ、今日は何の日でしょう?」 間違いなく重要な言葉に、動きのよくない脳みそが今日の日付を検索中。 「――――――あ」 そうでした。 「というわけで、買い物に行きたいと思います」 「…はい」 今日は佑《たすく》の誕生日で、張り切って料理を作るといういずみに、買い出しに付き合うと持ち掛けていたのは俺でした。 そのために今日の有休を取っていたのに、昨日のシステム復旧のヘルプでスケジュールがまるまる吹っ飛んでた。 「シャワー浴びてくる」 「私、小母様のところでお茶してるから、出掛けに呼びに来てくれる?」 「了解」 誕生日に結婚記念日、そのほかの祝い事。 土方の家とは極力関わらないようにしてきたけれど、これからは出来るだけ参加していこうと改めて、今日の佑《たすく》の誕生日が最初の一歩。 もうひと頑張りして、夜からがっつり寝よう。 |