【こっちがアバッティーニのお嬢さん。こっちが陳家のお嬢さんよ。そしてこっちがロービック家のお嬢さんね!】 釣書の写真をテーブルに広げた母さんは、オレと同じ蒼い目を涙で濡らしながら腰までの金髪をかきあげた。 手が届く位置にある正方形のサイドテーブルには半分まで注がれたワイングラスと、ボトルが二本。 一本は既に空みたいで、 ――――――つまり今、かなり酔ってる状態だ。 いくら旦那と息子しかいないとはいえ、書斎でネグリジェにストール姿ってのがまず普段からして有り得ない。 【信じられる? ロービック家はまだいいわよ、カジノ建設の利があるから。見込みは三年後だけどね! でもアバッティーニなんか 一声一声、トーンが上がっている。 そろそろ金切り声の域に到達しそうだ。 【あ〜、エヴァ。 【…いいよ、父さん】 一年に一度か二度、母さんはこうして溜めに溜めた澱をドロドロと吐き出す事がある。 一昨年までは父さん一人がその相手だったようだけど、日本の本宮グループ会長であるルビさんを見本にして倣えと、会社の経営を担うようになった去年から、こうしてオレも呼ばれるようになってしまった。 まったくもって不本意だけど。 【えーっと】 綺麗に装丁された写真へと一つ一つ視線を流して、 【ロービック家の彼女は好みじゃない。陳家は彼女の二番目の兄貴が嫌いだから断固拒否。アバッティーニは論外。先月友人の誕生パーティで会った時、別室に連れ込まれてキスされそうになった。14歳で痴女に仕上がってる女を婚約者とか、死んでも嫌だ】 次々と指で弾きながら断言してソッポを向けば、母さんが悲鳴のような声を上げた。 【うううううぅぅぅ、ダアアぁあリぃぃぃン、 【エヴァ…】 隣に座った父さんの膝に、母さんが泣きながらよじ登っている。 子供か、と思っても、声にはしない。 【よしよし】 【ダーリン…】 クスンクスンと鼻をすする音がしばらく続いて、 【 【…母さん、オレまだ12。二十歳まで決めないよ】 きっぱりと伝えれば、母さんの目にまたこんもりと涙が膨れてきた。 【あなたの結婚話で、私の30分が毎日消えていくの。超無駄過ぎる。もう無駄過ぎる。そして身内のバカの加減がひど過ぎる】 【祖父《じい》さんも同じような事言ってたらしいね。母さんの婿候補の話で毎日一時間が無駄になるって。それなのに、父さんに一目ぼれして母さんが結婚決めたのって幾つだっけ? 23? まずそこまでの猶予はオレにもデフォだよね】 【…うううう、だああありぃぃぃん】 【あー、はいはい】 母さんを両腕でしっかり抱きしめながら、 ――――――と、父さんが目で訴えてきたけれど、これに関しては絶対に退けない。 結婚して10年を過ぎても子供の前でイチャイチャする自分達を見せながら、子供には政治的なタイミングや結果を求めるなんて、ナンセンスだと主張する。 【…そうだわ、 げ。 【却下】 【どうしてよ! 彼女なら気心だって知れているし、あなただってまんざらでもないでしょう?】 【却、下!】 ぴしゃりと言えば、ほんの少しだけ光を映していた母さんの蒼い目は、またゆらゆらと揺れ始める。 【ああああんん、 とりあえず、この話以外にアジェンダはなさそうだったから、オレは母さんの視界を奪うようにその腕でしっかりと抱いている父さんに向け手を振った。 苦笑いでそれに答えをもらったオレは、無言のままその場を去る あとは夫の役目って事で。 ―――――― ―――― 【アブな…。おばさまがその気になったら、冬が来る前に婚約式だったわね】 母さんを知る人なら大袈裟と思わないほど体を震わせたマリー――――――マリアン・ファディーニに、オレは僅かに肩を上げて見せた。 オレより二つ年上の幼馴染。 ファディーニはロランディの親戚筋で、親同士の仲が良いから、物心ついた時からお互いそれなりの交流を持って過ごしてきた。 こんな風に、週末にロランディ家の中庭でお茶をするのは月に一、二度。 【いいことサクヤ、しっかり拒否し続けるのよ】 【当たり前だ】 【あなたと結婚なんて、絶ッ対に嫌!】 【はいはい】 【もう! 適当に返事しないで! 私は絶対…――――――……ズ】 グレイアッシュの瞳を勝気に煌めかせていたマリーが、オレの背後の存在を気づいた途端、全身から勢いを失くしていく。 色んな国の人間が多く集まるオレの周りでもかなり珍しい白金《プラチナブロンド》を、その指にくるくると絡めながら、崩れていた姿勢を正した。 【お茶をお持ちいたしました】 流線に敷かれた白の石畳の上を、ワゴンを押して最低限の物音で現れたのはロランディで代々執事を務めているシレア家の嫡男、ジェズ。 執事養成学校を出てすぐにロランディと契約した、オレより八つ年上の見習い執事。 もちろん、身内にこそ厳しい母さんが縁故採用なんかするわけはない。 【本日は 【ありがと、ジェズ】 目を細めて応えれば、柔らかい笑みを浮かべたまま、ジェズが紅茶を淹れ始める。 その流れるような所作は、さすが首席と言うところなんだろう。 小さい頃から、付き合いであちこちの屋敷を訪れているオレが、安心してみていられて、それでいて目を奪われる優雅さがあった。 マリーなんか、もう口が半開きの状態でジェズを見つめている。 このレベルでも、ロランディを仕切る筆頭執事であるジェズの祖父から見れば、まだまだらしいから、奥が深すぎ。 ふわりと、ベルガモットの香りが漂い、後から優しい柑橘系が広がった。 【――――――うん】 良い香りだ。 やっぱりレディ・グレイで正解だった。 湧き上がってきた喜びが顔に出ていたのか、ジェズが満足そうに笑みを深める。 同時に、マリーが赤くなった顔を見られないように俯いた。 【…絶対に、ジェズがいいんだから…】 【…】 片思い歴十年。 執念に似たその願いを邪魔しようものなら、今でさえこうして出汁に使われているオレの平和は、完全に脅かされる。 |