――――――正直に言うと、初恋相手は誰かと将来聞かれたら、マリーだったと答えてもいい程度に心がざわついた瞬間は確かにあった。 両家も公認で定期的に交流を持ち、同伴が必要なパーティにはお互いの名前が一番に上がるのは自然で、人の選別をするよう教育されているオレが持つ好感度としては現時点で最高だと思う。 それに気づいているからこそ、母さんも、これなら納得がいくだろうと言わんばかりに婚約の相手としてマリーを持ち出した筈だ。 だけど、ジェズを見ては頬を染め、お転婆なクセにジェズの前では大きな猫を被り、必死に異性として見られようと頑張っている姿を何年も傍で見続けていれば、恋と呼べるものに発展する力は当然萎えた。 【サクヤは…来年から寮に入るんだよね?】 給仕を終えて一礼し、オレ達から距離をとったジェズをチラチラと目で追いながら、マリーが訊いてくる。 【ああ。英国式のパブリックスクールが東海岸にあるんだ。カリキュラムも面白そうだし、大学を決めるまではそこでいいかなって】 【…ここに来る理由がなくなるじゃない…】 俯き加減で言うマリーの灰色の瞳が、僅かに揺れた。 慰めてやりたいような、そんな甘い想いが、こういう時は湧き出てくる。 【オレがここを出るまで半年もあるだろ? 告白してみるとか? ジェズならどちらの答えでもうまくフォロー出来るんじゃない?】 【簡単に言わないでよ。サクヤだって、ジュリーに好きって言われたら、困るでしょ?】 【は?】 ジュリーとは、ジュリアーナ・トルリアーニ、九つ下の母方のオレの従妹。 たまに会えば、オレの足にしがみついてくるちっこい奴だ。 【…あのさ、ジュリーまだ三つ。比較対象に――――――】 【私が彼を好きになったのもそれくらいだし!】 【……九歳差より、六歳差の方が少しはマシ――――――】 【なんの励ましにもならない言葉をどうもありがとう!】 泣きそうな表情をごまかすように、眉間に皺を寄せてオレを睨みつけてくる。 かなり怒らせたみたいで、マリーから新しい甘い香りが漂ってきた。 いつもと同じフローラルのオーデコロンが、上がった体温で僅かに変質している。 これが今日のマリーのラストノートか――――――…うん、少しこのレディ・グレイに似た安心感があるかも――――――。 【――――――スケベ。また私の香りを堪能してるでしょ】 【…表現】 【天下のロランディの後継者が、実は匂いフェチだって知られたら、社交界のお嬢さん達はここぞと香水バトルを始めるでしょうね〜】 【ぅ…】 それはちょっと、公害になりかねないな。 【別にオレは匂いフェチじゃない】 【何言ってるのよ。一緒にいて心地良いと感じる香りの人を探しているんだから、それは立派なフェチでしょうよ】 【それは違うよ】 ――――――僕はね、サクヤ。フラミンゴは愛の結末だと考えているんだよ。 日本語だけじゃなく、色んな事をオレに伝えて問いかけてくるサネハルの言葉で、まさにアイデンティティそのものを刺激したその言葉。 愛には色んな形がある。 それをどう注がれて経験を経たかによって、桃色じゃないフラミンゴがいるかもしれない過去からの結果。 そのフラミンゴをフラミンゴと認めるかどうか、愛せるかどうか。 サネハルのその持論を聞いた時、胸の奥底からオレの核が芽吹いた。 難しい単語を尽くした帝王学よりも、オレがどうあるべきか、どうありたいかのビジョンを導かれた。 【オレはただ、パートナーを探す目印として、最初の選別方法がまずは香りだってだけ】 【…だから、匂いの好みで選ぶ、そういう事でしょ?】 【違う】 こういう認識の違いは放置しておくと別の問題の要因になる。 特に、女子の横繋がりの果てでは最終的にオレにとっての障害となって壁になるリスクが高いから、明確にしておかないと。 オレは、マリーを正面から見据えて言った。 【人の香りは、香料の組み合わせで体質に合わせて幾らでも調節できるけど、そうしてまで傍におきたいと思う人は、きっと多くない】 父さんに出会って、母さんは相当変わったという祖父は言う。 仕事ぶりじゃなく、人間として、そして女として。 【だからオレは、好みの匂いじゃなくても、好みの香りにしたいと、そう感じる人を探してるってだけだ】 【…それってなんか、卵が先か、鶏かって話しみたい】 難しく顔を顰めたマリーに、オレは思わず頷いた。 【あ〜、そうなのかもね。多分】 【え?】 【結局、そう思うのに理由はないんだよ。――――――マリーが、ジェズを無条件に好きみたいに】 【なッ…!】 本当は、周囲の大人達は知っている。 マリーの恋はインプリンティング。 父親の見よう見まねで執事ごっこをしていたジェズの姿が、マリーが初めて見た王子様の理想と重なっただけ。 でも、好きになる切っ掛けなんてそんなもんだ。 きっとオレにも、そうやって突然に人を好きになる瞬間がやってくる。 あの両親の息子だから、そのあたりは疑いたくはないし、むしろ大歓迎だ。 けれど、出会う人があまりにも多すぎて、まだ恋愛方面に未発達なオレの脳はすぐに疲弊して探し飽きてしまうから、ある種の線引きとして、好みのラストノートを持つ人を最初に判別してるだけ。 【――――――けどさ、理想の香りも漠然としすぎてて、色々嗅いでる内に何が好みだったかわからなくなるのが困る】 頬を膨らませたマリーを無視したまま会話を続ければ、彼女は気を取り直そうとしたらしく背筋を伸ばした。 【…って言うか、サクヤってそもそも、自分の好きな香りを本当は解ってないんじゃないの?】 【…え?】 何言ってるの? と視線で問えば、マリーが大袈裟に息を吐く。 【だって、サクヤが挨拶の後に会話を交わす子って、最初の二、三人はフローラルノートの子だけど、あとはフルーティだったり、配合がちょっとフローラル寄りのムスキーだったり、結構バラバラ。他にもちゃんとフローラル系がいるのに全然気づかないし】 【…絶対に、同じような香りの子を選んでるつもりだった…】 信じていた自分の鼻に疑惑が湧く。 そんなオレの動揺を小さく笑って、マリーは言った。 【バカね。調香師でも連続で香りを利く事はしないらしいわ。素人ならそんなものじゃない?】 【…そっか】 【頭の中ではどんな香りを想像してたの?】 【…ん】 オレが脳内で理想としていた香り。 好きな花は、木に咲くような力強い花。 厚みのある花びら、あの手触り、そこから香る自然の甘さ、それでいて透明。 すっきりとした甘さに、リラックスを促す深い蜜の味。 時間が経てば経つほど全身を包み込むような、――――――優しくて、それでいて体にぴったりとくる感覚の香り――――――。 ――――――そうだ…。 【…香水じゃない】 【え? これ? 私のはコロンよ? そんなに強くないでしょ?】 【じゃなくて、ボディソープ】 【え?】 そうだ。 まるで香水のように、ラストノートまでしっかりと香るボディソープ。 【作ろう】 オレだけのやつ。 |