小説:秘密の花は夜香る


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秘密の花は夜香る
SECRET:08


 Sakuya Murose――――――

 会社の正式な代表名として登録されている名前で示された二箇所にサインをいれて、ダイヤモンドが一粒光る万年筆をスタンドに戻せば、向かいに座っていたルビさんがチラリと視線を背後に向ける。
 身に着けている、光の加減で柔らかい光沢を生む素材のスーツが、微かにも揺らめかない事が不思議なほどの凪の動作。

 そんなルビさんの無言の指示を受けて、本宮グループの法務部をまとめている大輝さんが、たった今、オレが署名したばかりの契約書二枚をテーブルからその手にとった。

 「――――――問題ありません」

 鋭い眼光で隅々まで再確認した大輝さんが日本語でそう頷けば、真顔だったルビさんの表情がふと緩む。

 【契約がうまくまとまって良かった。僕も、仲介した甲斐があるというものです】

 その眩しいくらいの蜂蜜色の視線は、オレの隣に座る男へと向けられる。
 正面からそれを見る事も出来ず、さっきから落ち着きなく額を拭いたり貧乏ゆすりをしたり、――――――これでも、アジアのリゾート地に巨大な高級ホテルを幾つも所有する会社の副社長で、その背後に控えている秘書も、冷や汗ダラダラ。
 オレ一人と向き合っている時は横柄な態度で誠意の欠片すらなかったのに、ルビさんが登場して以降、小者と化した。

 話の中心となっているのは、五人で取り囲んでいるこのテーブルに鎮座した紺色のボトル。
 イランイランの花が上品に描かれた、オレが運営する会社で開発から販売まで取り扱っているボディソープだ。

 オレが契約書に署名した瞬間から、卸先はすべてこのホテルの独占になったけど。

 【も…本宮さんには、大変お世話になりました。その、社長が、くれぐれもよろしくと】
 【――――――社長にお会いできず残念でしたが、意義のある締結に携われた事を嬉しく思うとお伝えください。本宮は、今日の事を忘れないでしょう。…ロランディも――――――とね】
 【え、いや…、それは…その…】

 ハリウッドスターを父に持つルビさんの、その隙の無い綺麗な笑みは無双。
 瞳に温度がないと、かなり冷たく見えるもんだ。

 …結構怒ってるな、ルビさん。

 【副社長、そろそろ飛行機のお時間では?】

 大輝さんに役職でそう促されて、さすがにこれ以上の長居はマイナスだと判断できたのか、よろよろとした所作で一人掛けソファのひじ掛けを支えに立ち上がった。
 それでも、足元がふらついたところを、慌てた秘書の手に支えられる。

 【で、…では、私はこれで…】

 契約書の一部と、詳細をまとめたメモが入っているモバイルをどうにか腕に抱きこんで、二人は後ろ髪を引かれるように何度もこちらを振り返りながら部屋を出て行く。

 そんな風に後悔するくらいなら、最初から、会社を経営しているからにはオレをただの十五歳の子供のように扱うべきではなかったし、せめて後見人がルビさんである事や、それが判る程度まで怠らずに調査していれば、オレの本名くらいは出てきたかもしれない。

 そうすれば、もっと違う今があったかも知れないのに――――――。



 「――――――最後まで余裕だね、咲夜《さくや》。もしかして、僕が出るには早すぎた?」

 すっかり湯気を失くしたコーヒーカップを三本の指で優雅に持ち上げたルビさんが、悪戯っぽい眼差しでクスリと笑う。
 オレの答えを聞く前に、少し傾けて唇を湿らせた貴族をも思わせる所作が、ここ数年の度重なる経営陣の醜聞により一流からすっかり落ちぶれてしまったホテル内のどんよりとした会議室に物凄く不釣り合いだ。

 「いえ。ルビさんが来てくれたお陰で、狙っていた以上の数字で締結できました。予想外の"濡れ手で粟"の収穫でしたね」
 「ぬれて…?」

 オレの応えに首を傾げたルビさんの傍で、書類の片付けを始めていた大輝さんが口を開く。

 「苦労なく利益があったという意味です」
 「へえ?」

 ルビさんが、カップをテーブルへと戻した。

 「――――――という事は、やっぱりここに来たのは余計なお世話だったかな」
 「…厳密に言えば、YESです」

 ゆったりとしたソファの端で、ひじ掛けに腕をおき、少し体を斜めにしたルビさんが愉快《たのし》そうにオレを見つめて話の先を促している。

 「――――――この商品はオレの趣味…ほとんど道楽で生まれたようなものです。原料に拘りがありすぎて、日用品なのに、香水よりも高い。正直、一部受けが狙えれば良いという感じで、得られる利益も、展望するポテンシャルも、低かったというのが本音です」

 オレだけのボディソープを作りたいと、愛着をもって開発はしたけれど、当時は採算度外視の趣味の産物。
 だけど、ルビさんの伝手で最初の販路となった世界チェーンのエステグループ"|Aroma《アロマ》"のスパを皮切りに、じわじわとネットで騒がれるようになった。
 大量生産に踏み切ってはどうか、そんな提案もスタッフから出たけれど、オレは敢えて、流通を調整する方法を選んできた。
 販売戦略として、手に入れる飢餓感を煽るためであり、

 「実は…今回契約したのは、次の最高級《スーペリア》を支えるためのグレード…なんですよね」
 「――――――へぇ?」

 資《たくみ》と香りの話になり、再び理想の香りを求める情熱を復活させたオレが久しぶりに開発部に顔を出せば、研究員はまだオレの最初の理想を追いかけていて、最後の調整に至るところまで漕ぎ付けていた。

 「もう少しで、このラスティングソープとはまた違う、イランイランの新しい香りが誕生します」

 イメージから究極まで追い求めた理想の香り。

 まずはトップ、温かい肌に触れた時に香るのは、微かにシトラスを乗せた、ゆっくりと、沁みるように、深いところに沈んでいく花の香り。
 風呂から上がって体温が下がる頃のミドルでは、仄かにバニラが削られて甘くなり、服を着て、――――――もしくはベッドで熱を放つ頃には、ラストのイランイランが魅惑として立ちのぼる。

 あれは、オレにとってのファム・ファタール《唯一の香り》と称《い》っていい。

 「凄く、良い出来です。――――――そのスーペリアより下のグレードになるエクストラも、このエクストラを凌ぎます」

 でも、どんなに出来が良くても、ボディソープは所詮消耗品。
 だから、拘りを買ってもらうような値段をつけても、ビジネスとしては直ぐに回らなくなる。

 「なので、数を捌ける安定ラインが欲しかったんです。あそこのリゾートチェーンはデラックスルーム以上の保有数がダントツですし、複数の優良な立地を押さえているから全体での稼働率も決してボーダーラインを割らない」
 「…下調べは十分のようだけど、生命線を一社に委ねるのはどうかと思うよ」
 「それも考えたんですけど、その頃には、もっとリーズナブルな新しいアイテムを開発するってスタッフが張り切っているので、任せてみるのもありかなと」

 自分にしか出来ない事と、人に任せられる事の線引きの仕方を教えてくれたのはルビさんだ。
 案の定、オレの答えは先生としては納得できるものだったみたいで、嬉しそうに表情を緩めた。

 いつ目にしても、この美しさには見惚れてしまう。

 「――――――ルビさん、確か一昨日は日本でしたよね? ジェット飛ばして来たんですか?」
 「うん。ロスによって大輝拾って、そのままこっち」

 マジか。


 「ありがとう、ございました」
 「…咲夜《さくや》?」

 打算も含めて決断した事だったけれど、あのまま相手の酷い態度の中で取引を続けていれば、まるで身売りのようだと、少し苦い思い出になったかもしれない。
 ロランディの名前のない仕事だからこそ、経験出来ることではあるけれど…。


 「――――――咲夜《さくや》」

 名前を呼ばれた顔を上げて、

 「ぁ」

 無意識に、俯いてしまっていた自分に気づく。
 視線を合わせてきたルビさんは、けれどそこには何も触れずに、

 「僕がR・Cを立ち上げた時は、もっと沢山の人の力を借りたし、企業の売り買いばかりが得意になって、何かを作り出すなんてビジョンすらなかった。立ち止まるのはいいけれど、まだ後ろを振り向くタイミングじゃないと思うよ。十年後の自分の為に、出来る事をしながら、何かを作り出そうとする君の道を、今はただ真っ直ぐに進んで行って欲しい」
 「ルビさん――――――」


 淡い金髪をかきあげたルビさんのその言葉は、サネハルとは違った力で、ゆっくりとオレに満ちてくる。

 「――――――はい。精進します」


 今のオレに出来る事を、少しずつ。









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