小説:秘密の花は夜香る


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秘密の花は夜香る
SECRET:11


 お別れ。

 …お別れ――――――?


 つい数時間前まで、深いキスをして、体を重ねて、オレの腕の中でオレの名前を何度も呼んでいたその口が、


 【なんで――――――】

 反射的に言いかけて、子供みたいなセリフだと留まる。

 じゃあ何て言えば?

 何を、言えば――――――…?



 【オレを…納得させる理由があるのか?】

 精一杯、冷静を努めた。
 オレが知っている、カッコイイ大人の男の人達総動員で、記憶を攫って出てきたのが、漸くその言葉。


 【そうね…】

 ブラのフロントホックを留めた手で、彼女は乱れた髪をまとめるように耳の後ろへと梳き流した。
 露わになる首筋から方へのライン、毎週末にジムで引き締めている身体は、下着姿が一番綺麗だと思わせるほど魅力的で、

 そこに唇を寄せて、見つめ合いながら高みに上ったのはついさっきの事なのに、


 【――――――私はもう、人のモノだから、かしら】


 頭が、真っ白になった。


 ロランディの名を継ぐ者なら当然、その血筋の果ての誰もが知っている事。

 人の女《もの》に手を出す事は、過去からの教訓に背反する行為。

 ロランディは、攻略を駆使して材も財も奪える。
 ビジネスとしてなら容赦はしない。

 けれど、人と人の絆を、序列を乱す欲望で壊してはいけない。
 かつて悪手を打った先祖の一人と同じ報いに、一族を晒したくなければ――――――。

 これは社交界では当然の、ロランディ独自の不文律。
 序列を示された相手がいるのにロランディの血筋に手を出す事は、禁を破らせるとこと唆す事、つまり一族への宣戦布告と同意義を持つ。


 【いつから…?】

 警戒はしていた。
 二カ月サイクルでガールフレンドを変えていた時も、学校の外に婚約者はいないか、ロランディに近づくために、隠している恋人がいないか。

 けれど、彼女の事は、気を付けていたのは最初だけで、
 それでも、この終わりの瞬間まで、そんな素振りを欠片も見せなかった。

 【一体いつから】
 【――――――サクヤ、力を抜いて】

 彼女の両手が、オレの右手に添えられた。

 【傷がついてしまうわ】
 【…】

 いつの間にか、強く握りしめていた拳に気づかされ、けれど、うまく制御出来ない事に僅かに焦る。


 【嘘じゃなかったの】

 優しく撫でるようにオレの指を解いて、

 【何が…?】
 【あなたと抱き合って、幸せだったこと。名前を呼んでその腕に縋った事、キスをした事――――――。私の気持ちに嘘はなかった】

 けれど一本一本が自由になるごとに、思考の混乱は極まって行く。


 【――――――なら、】

 思わず言いかけて、オレはハッと口を噤んだ。

 何を、口にしようとした?
 人のものだと、知ってしまったからには、引き止める事が出来ない。

 【…】

 まるで三半規管を揺らされたみたいだ。
 彼女から漂う薔薇の香りが、眩暈を誘う。


 【いつ…から?】

 絞り出せたのは、さっきから愚か者の一つ覚えのように頭の中を駆け巡っているその疑問だけ。

 【いつから君は――――――】

 ロランディの先祖《かこ》からの教示は、宗教の概念にこそ届かないけれど、まるで皮膚呼吸が出来なくなったかのように、オレを不快に罰するくらいには染みついている。


 【私が人の物になったのは――――――ほんの二時間くらい前からだわ】
 【――――――は?】


 答えの内容が上手く呑み込めない。
 冷静になりかけていた思考がまた混ざる。

 そんなオレを尻目に、彼女は手櫛で髪を梳きながら息を吐いた。

 【あなたとエッチして幸せに眠って、でも零時を過ぎた瞬間から、人のものになったの】
 【…もしかして今日は――――――】

 そんな予測はどうやら外れていなかったらしい。


 【ごめんね。今日は私の誕生日だわ。めでたくもないけれど】

 ビスチェを着て、シャツを羽織り、最後は白のジーンズを穿いてウエストまで引き上げる。

 【それじゃあね】
 【ちょっと待て、――――――】
 【もう部屋に戻るわ。お互い、これ以上関わってもいい事ないわよ】
 【待って、頼むから】

 隙を見せれば直ぐにでも歩き出そうとする彼女の手首を掴み、空っぽの思考から漸く出た言葉。

 【俺の方が先だ…】

 ふ、と。
 彼女から柔らかな笑みが零れる。

 本気で向き合って付き合いたいと、決意したオレを肯定してくれた、あの時と同じ微笑み。

 【サクヤ、順番をいうなら、私が十八になったら婚約する事は、生まれた時から決まっていたのよ】
 【…関係ない。――――――何か、制約があるならオレが――――――】
 【やめて】

 オレが言おうとした事を察したのか、思いのほか強い口調で彼女は首を振った。

 【私はそんな事は望んでいないし、あなたを、ましてロランディを乱す気はないの】
 【関係ない。オレは】
 【ご両親に何を頼むの?】
 【…】

 次の言葉が、出てこなかった。

 そうだ。
 社交界において、まだ大した権力も権限もないオレが出来る事は限られている。

 結局は、ロランディの――――――父さんや母さんに頼る事になる。
 しかも、忌避すべき"序列を乱す行為"の助力を求めて…。

 【わかるでしょう? 誰も幸せになんかならない展開になるわ】
 【…】
 【あなたが私を攫ってくれたとする。でも私は、ロランディのそんな針の筵に座ってまで、あなたが大人になるのを待つ気はないの】

 力のない子供だと、現実が刺さる。
 微動も出来ずに固まったままのオレの頬に、彼女の手が伸びてきてそっとあてられた。

 【本当はね、あの時。――――――あなたが正式な恋人に申し込んでくれた時、私の方が嬉しかったの。潮時だって、アレ、自分に言い聞かせてた。…私の、事だったの。十八になったら結婚しなきゃいけないのに、ただ経験した人数が増えていくだけじゃ、私には何も残らない。でもあなたなら、もしかしたら甘い恋の夢を見せてくれるんじゃないかって、そう思って…】
 【…叶った…?】
 【ふふ。ほんのちょっとだけどね。やっぱり、しようと思って、始まるものじゃないのよ、恋は】

 オレでは、恋の相手にしては不足があった。
 そう匂わせる言葉が、果たしてどこまで本音だったのか。


 【でもね、これだけは確か】


 ――――――あなたと一緒にいる時は、ずっと幸せな気持ちだったわ、私。









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