小説:秘密の花は夜香る


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秘密の花は夜香る
SECRET:12

 驚いた事に、彼女はそれから一週間もしない内に転校していった。
 人から伝え聞いた話だと、婚約者となった幼馴染が通う学校が転校先らしい。

 オレと彼女の関係はほとんど知られていなかったから、生活の上辺は何も変わる筈もなく、


 ――――――違う。

 自分が何も変わっていない事に対するこの気づきが、大きな進歩だった。




 【――――――それはアレだな。情ってヤツ】

 そこに居るだけで王子様然としたルビさんの美しさとは違う、野生の獣のような色気が売りのルネさんから発せられた単語に、意味を呑めずオレは反芻した。

 【情?】
 【情】

 頷きながら繰り返しただけのルネさんは、耳にかかったブロンズの毛先をうるさそうに指でかきあげて、それからグレーの眼差しを正面のオレに向ける。
 近況報告を兼ねたランチを約束していたルビさんの代わりにレストランに現れたルネさんは、その洞察力から直ぐに何かを察したのか、後見人代理として命令を下し、容赦なくオレから過去のデイリーログを引き出した。
 そして、彼女との出会いから別れまで洗い浚い吐き出したオレに対する感想が、さきの"情"という言葉だ。


 【馴染んだぬいぐるみ、履き慣れた靴、使い古したローブの感触、いつもの事にも、心はちゃんと動いているんだよね。安心感とかさ、満足感とか。人の深層心理のどこかに、それは蓄積されていく】

 いったん言葉を止めたルネさんは、そこで唇を斜めに笑った。

 【男は本能で勃つからさ。燃えるような愛を感じていない相手でも、セックスは出来るし、関係を続けて、慣れて馴染んで、楽しい時間を共有しているうちに、大切な気になっていく。愛しい子だと思うようになる】
 【…】
 【比較対象が無い人には、それを愛かどうか区別するには難しいよ】
 【オレが…本気じゃなかったって? …ぁ、すみません】

 さすがに、ルネさんに対して失礼だと思えた口調を自戒しようと俯けば、ルネさんの笑い声がまた目線を誘った。

 【いいよ別に。――――――否定してるわけじゃないよ。お前は本気だっただろ。一緒にいて幸せだったと女に思わせたのなら、彼女に向けていたお前の気持ちや、セックスにかけていた手間は真剣だったはずだよ。そういうの、敏感だからね、女は】
 【…手間って】

 混乱した頭では、突っ込みどころが判らなくなってしまった。

 【ただし、濃さはあるんだ】
 【…濃さ?】
 【濃度というか…】
 【―――――グレード、ステージ、フェーズ…とか…?】
 【うーん…】

 何かを追憶するように、ルネさんの人差し指が自身の唇を二往復した。


 【…テイスト?】
 【味?】
 【サクヤなら、香りの方がいいのかな?】
 【…香り…】
 【そう】


 目を細めてルネさんが浮かべた微笑みは、これまでに見た事がない柔らかさで、


 【世の中には香りが溢れているよね? ありふれて、お馴染みで、よく知っていて、苦手なものもあれば、慣れて好きになるものもあって、好きだと思っても直ぐ名前も忘れてしまう香りもあれば、脳内で何度も呼び起こされる香りもあったりさ】

 オレがボディソープを作った時に追い求めた香りを思い出す。

 【サクヤは今、その彼女の"残り香"に浸っているだけだよね】

 ギクリと、背骨にヒビが入ったような気がした。

 【その彼女が、お前にとってのファム・ファタール《唯一の香り》じゃなかったって、自分でも思っちゃったから、自己嫌悪してるだけなんじゃない?】
 【…オレは…】

 言い淀んだオレに、ルネさんは突然、声を上げて笑う。

 【ルネさん…】

 きっと情けない表情だろうオレを指さしながらしばらく笑い続けていたルネさんは、【悪い悪い】と手を上げて、湯気のなくなったコーヒーを口にした。


 【なんにしても、男女の仲を知った気になるのにはまだ早いよ。そして、それを勉強させてもらったという意味で、これまた良い女が残り香をつけてったもんだと、逆に感心するね、オレは。お前のその強運に】



 「――――――ほんとに、置いて行かれた事だけに、腹を立てていたんだな」

 色んな意味の温かさを宿したルネさんの手の温もりを肩に思い出して嘆息する。


 ロスに戻るというルネさんをヘリポートまで送った後、そのまま寮に戻る気にもなれず、裏の森に足を踏み入れていた。


 彼女がいなくなったらいなくなったで、何も変わらなかった自分。
 寂しさとか、遣る瀬無さとかは確かにあった。
 けれど数日のうちに残ったのは、

 "彼女から、何の相談も、前触れすらも無かった事"、

 もしかしたら、
 それを隠そうとしていた彼女の変化に、

 "まったく気づいていなかった自分の未熟さの事"。


 彼女を愛しいと思っていた筈の気持ちは、あっという間に霧散してしまっていた。



 「――――――情…」


 普段の大人びた綺麗さとは違う笑みを、オレにだけ見せる瞬間が愛しさの切っ掛けだった。
 三つの年の差を埋めるように、キスも、前戯も、全力でいった。


 「…わかんねぇな」


 呟きを舞い上げるように、木々の間から風が吹く。

 「戻るか…」

 森林浴を続ける気分でもなくなって、踵を返そうとした時、



 ふぎゃああああぁああぁっぁぁぁ


 赤ん坊の泣き声のような、叫び、悲鳴、そんな声が耳に届いて、



 「――――――ネロ?」


 茂みから駆け出してきた、すっかり薄汚れたネロが、


 みゅぎゃぁぁあ、


 その後ろから追いかけてきたらしい一回り大きな茶トラの猫に、飛び掛かられて、押さえつけられる。


 シューッ、シューッ、


 ネロから激しく漏れる息。
 その首の後ろに、茶トラは容赦なく噛みついて、どうやら発情真っ最中だ。


 「…猫はアレが抜けないように中で棘になるから、メスはかなり嫌がるとは聞いた事があるけど…」


 必死で逃げようとするネロを、茶トラは逃がすつもりはないらしく、全身と牙を使った押さえつけ方が半端なくなってきた。


 「…でも」

 動き出したオレに漸く気づいたらしいネロの目が、じわじわと大きく見開かれていく。
 名前の由来になったその黒目の大きさに、初めてその目を見た時の、資《たくみ》の顔を思い出した。


 と同時に、資《たくみ》を見上げる、こいつの顔も――――――。


 「どう見てもさ、お前が不埒モンだよな、――――――Hey!Fuck off!」


 声をあげて近寄れば、茶トラは飛び退いて一目散に茂みの向こうへと姿を消した。


 「早…、――――――おい、大丈夫か?」

 ぐったりとした様子のネロは、まだオレから視線を離さない。
 見つめ合っていると、妙に伝わってくるものがある。

 多分…、

 オレに助けられた事には不満で、
 けど暴漢から守ってくれた事には感謝していて、
 でも、この事は資《たくみ》に言わないで――――――みたいな…?


 「…オレも、相当毒されてるな」

 一息吐いて、

 「抱くぞ、引っ掻くなよ。シャワーで汚れ落として、傷も手当てしないと」

 柔らかい腹に腕を廻して抱き上げながら善意で提案したオレに、シューッ、と小さな牙の隙間から返事が来る。


 「…わかったよ。シャワーは誰か女子掴まえて頼むから、だから、綺麗になったら、ちゃんと飯食え。痩せすぎだ、お前」

 弱っているのが、見た目でわかるくらいにやつれていた。
 だからこそ、森の主的存在だった筈のこいつが、珍しくオスに目をつけられたんだろう。


 「わかったな、――――――ユキ」


 そう呼びかけても、ユキは顔を背けるだけで特に反論もなく、


 「ったく…素直じゃないな」


 どうやら、資《たくみ》と同じ呼び方をする許可は得られたらしかった。









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