――――――と思ったのは、どうやら勘違いだったらしく…、
「…おい、ユキ、――――――ネロ」 なぜかオレの部屋に居座るようになったネロは、相も変わらず不愛想。 ユキと呼んでも総じて無視で、ネロと呼んでようやくその黒目がオレを捉える。 「やめろ、そのレポート、どれだけ時間をかけて仕上げたと思っているんだ」 USBメモリを前足で弄ぶネロは、間違いなくその価値を知っている。 「…わかった、今日は資《たくみ》とオンラインするから」 傍から見れば、正気を疑われるレベルだと思う。 こんな理知的な会話を猫に向けるとか。 「…約束する」 けれど人質ならぬ物質をとられたオレに選択肢は無い。 ネロは、オレの答えを舌で転がすかのような時間をかけて理解し、ようやくUSBメモリからその爪をどけた。 その後は、つーんと横顔を見せたまま、まるで人形のように身動きもしない。 「…クソアマ」 それからというもの、シーツを泥だらけにされ、机から物は落とされるわ、署名用のインクをひっくり返されるわ、気に入っていたカバンを引っかかれるわ、制服に座り込まれるわ、皿はひっくり返すわ、かなりいいようにやられまくり、 そのくせ、資《たくみ》とオンラインで会話している時は近くに寄ってこない。 資《たくみ》の顔を見もしなければ、自分がいる事もPRしない。 なのに、音声をイヤホンで独占していると、遠くから威嚇して催促する。 「…お前な、オレを使って何がしたいんだ、ったく」 ジッと見つめてくる目を受け止めて、指先をネロの鼻先にあてた。 ヒクリと震えるように反応したのは一瞬だけで、特に逃げる仕草もないから、そのまま口の周り、顎の下へと移動する。 短い毛の触り心地が気持ちいい。 「…傷は治ったな」 よほど抵抗したのか、あちこち引っかき傷を作っていたネロの皮膚は、一番出血が目立っていたところもすっかり完治していた。 首根っこを噛み押さえられながらも、最後まで足掻いたのは、資《たくみ》への操という事か。 「――――――お前の方が、よく知ってる」 愛し方を。 執着を。 「協力してやるよ」 笑ったオレに、やっぱりネロは愛想笑いすら返さなかったけど。 "――――――資《たくみ》、ネロが、死ぬかも知れない" 前触れもなく落とした究極奥義は、躊躇していた資《たくみ》の背中を見事に押した。 気怠く項垂れるネロの様子は、まあ、見ようによっては弱っているように見えて、 正体を知っているオレからすれば、横になって女王に擬態した魔女が、指で資《たくみ》を呼び寄せているシーンだ。 二カ月ぶりに見た資《たくみ》は少しだけ痩せたように見えたけれど、オレとの目線に変わりがないという事は、順調に成長はしているという証。 これまでのやり取りから推測しても、ネロの事を除けば問題はなさそうだから、日本での環境は悪くなさそうだ。 そして、 「ユキ」 「んな、んな…」 「ユキ、ごめんね、一緒にいられなくて…」 「なぁ…」 「寂しい思いさせて、本当にごめん」 「んなぁ…」 「もう絶対に、離さないから」 何度もユキの頬に唇を寄せる資《たくみ》と、それを目を細めて受け止めるネロは、 「――――――すれ違いの果てにやっと結ばれた恋人か、お前らは」 呆れるくらいのイチャつき振りで、 「こらクソ猫《アマ》!」 "いかにも"という声で、甘えた声でネロが鳴いた事にこれまでの腹立たしさがマックスになって、 「資《たくみ》連れてきたぞ、さっさとメシ食え」 首の後ろを掴んで持ち上げて用意したエサの前に放り投げれば、資《たくみ》から抗議が飛んでくる。 「何するんだよ! やっていい事と悪い事があるくらいわかるだろ!?」 「ああ? 知るかよそんなの。オレのこの一カ月の苦労を思えば、軽い仕打ちだ、こんなの」 「咲夜《さくや》!」 「お前、よりによってこんな|性質《タチ》の悪い女に捕まりやがって」 ここ最近の"いたずら"を事細かく伝えれば、資《たくみ》はどんどん顔色を失くしていって、ネロはと言えば、他人の話を聞くかのような態度で爪の間を舐めている。 「長年この辺りに住み着いてるらしいからな、こいつ。…少なく見ても十歳だろ? そろそろ婆ちゃんだし、今連れてかなかったら、お前絶対に後悔するぞ?」 「ん…、きっと…日本で一緒に住むことは出来ると思う。マンションの同じフロアに俺用の部屋、用意して貰えてて、責任が取れるならペットも好きにしていいって言われてるから…」 「じゃあ今度こそ連れてけよ? 絶対そいつ置いてくなよ? チョー迷惑」 正直、今後のネロは、オレの手に負える気がまったくしない。 「…問題はさぁ、飛行機なんだよねぇ」 「は?」 十時間以上も離れていないといけない機内での事が心配だという資《たくみ》に、 「…プライベートジェットなら、問題ないな?」 オレはネロに完全降伏。 頻繁に日本を行き来しているルビさんを頼って、無事にこの迷惑カップルを自分のテリトリーから追い出した。 ―――――― ―――― 【――――――s? Baltas?】 …バルタス? 窓を開けたままベッドで仮眠をとっていたオレの耳に、囁くような呼びかけの声が入ってくる。 【バルタス? バルタース】 同じ言葉を繰り返す中に、合図のように続けて舌を鳴らす音が入るのは、つまりそういう事だろう。 仕方なく体を起こし、窓から身を乗り出して声の主を探す。 猫のおやつだとわかるものを片手に、茂みに向かって名前を呼び続けているのは、アッシュブラウンの髪の、やけに体の線が細長い男だった。 寝惚け眼を凝らしてみれば、 「あれは…、アンドリュー・レイゼン――――――か?」 教室でも口数の少ない、超のつく優等生だ。 リトアニアからの留学生。 世が世なら殿下と称されるべき血筋だという事で、一目置かれているというか、誰からも遠巻きに見守られている人物。 【――――――なあ、もしかして白い猫を探しているのか?】 |